ささやかな勝利を祝うため、夕食の後は酒を用意した。バーに誘っても良かったが、飲もうと思った時にはサイファーは既に部屋に戻っていたからだ。
 部屋に戻ると、褐色の頭が内装を観察していた。もの珍しいものでもあったのだろうか。
「どうした?」
「いや、元いたサイファーの私物はやはりなくなっているのかと思って」
 サイファーの視線の先を辿ると、あいつのベッドがあった。二段ベッドの下段だ。
「ああ……、あいつは元々私物が全然ないからな」
 くしゃくしゃになっているベッドのシーツを見て、俺は苦笑した。それだけの説明ではあったが、サイファーは妙に納得した顔で二段ベッドの端に腰かけた。
「酒は飲めるか?」
 質問すると、サイファーはこちらを見た。俺の持つ赤ワインの瓶を視線の中に捉える。
「生憎、酒は得意じゃない」
「意外だな」
 言葉通り、予想外の反応に俺は目を瞬かせた。だが、サイファーのセリフにはまだ続きがあった。
「ただ、赤ワインなら少し飲んでもいい」
「無理しなくていいんだぞ」
「無理するほど飲まないさ」
 その反応を見て、それならとテーブルを引っ張った。この部屋には椅子がないため、ベッドに腰かけるしかない。
 グラスに栓を抜いたワインを注ぐと赤い色がその中で泳いだ。確か前にもこんなことがあったな、と思う。それはもちろん、こちらのサイファーとの出来事だが、こいつもそうなのだろうか?
 それを尋ねようとしたが、サイファーはワインをグラスの三分の一ほど傾けて飲みほしたところだった。その様子に、なぜだが心を奪われる。途端、あちらの俺がとても羨ましくなった。
 かり、と頬を指先で掻く。ぽつりと俺は呟いた。
「少し、向こうの俺が羨ましい」
「……?」
「あっちの俺とお前は、上手くやってるんだろう?」
「決して悪くはないな」
 ことりとグラスを置いてサイファーが言った。グラスには半分ほど残っているが、恐らくこの一杯で打ち止めだろう。なので注ぐことはしなかった。彼の分も飲む位の勢いで、俺はグラスの中身を一気飲みにした。
「俺とあいつも、決して仲が悪くはないと思う。が、あいつの目は俺を見ていない」
 そう、俺を見ているはずなのにもっと向こう側を見ている。それが時折、どうしようもなく不安になる。近くて遠い、あの距離が。
「拒絶もされないが、受け入れてもいない?」
「ある意味ではな。あいつもお前くらい」
 ―――だったらいいのに。
 視線をサイファーへと向ける。褐色の目がこちらを見ている。俺をだ。
 自然と手が伸びていた。それが相手の頬に触れる。サイファーはほんの少し目を細めたが、まだ何も言わず、表情を変えなかった。僅かに触れている頬から体温が伝わってくる。
 どこまでなら許すだろう。こいつはどこまでなら許すだろう?
 さらに距離を詰め、テーブルを蹴り飛ばしたことで物音が響くが今はそれどころじゃない。日頃の満たされない欲求が酒のせいで堰き止めることを忘れてしまっているのか、それとも酒で理由を誤魔化しているのか、それはよく分からない。
 あとひと押しすれば押し倒せる。が、そこまで追いつめたところで部屋の扉が突然開いた。びくりと肩を震わせ、サイファーと共に戸口を見やれば、黒髪をした長身の男が立っていた。グラオ2、リーンハルト・キーア。
 部屋の中の惨状に、キーアは目を細めて眉を少し寄せた。当然だ。今まさにサイファーを押し倒さんとしている上に、テーブルの上のグラスは片方倒れている。ワインの中身をぶちまけて。
「……片羽、何をしている?」
「いや、これは」
 完全に酔いが醒めた俺は、ばつが悪くなって頭を掻いた。サイファーはまるで何事もなかったかのようにグラスを元に戻した。
 その様子を見ていたキーアがふと、呟く。
「……サイファー?」
 かちりと二人の目が合うが、数秒の後にキーアはふるふると頭を横に振った。
「いや、なんでもない」
 ぱたんと扉が閉まり、何をしにきたんだと逡巡していたところで予告なく扉がまた開いた。全く心臓に悪い。内心跳ね上がっている心臓の鼓動を抑えていると、キーアがこちらをじっと見て言う。
「ピクシー」
「な、なんだ」
「秘め事はほどほどにしておけよ。それからやるなら静かにやれ」
 ぱたん。カツ、カツカツカツ。
 擬音にするとそんなところか。規則正しい間隔の足音が遠ざかり、俺は大きなため息と共に頭を抱えた。
「ピクシー」
「今度はなんだ」
 後ろにいたサイファーにも声をかけられ、そちらを振り返る。思わずそんな返事をしてしまったが、よくよく考えれば俺はこいつに対して、してはいけない行動に出ようとしていたのだ。
 怒っているのだろうか。
「……その、すまない」
 謝罪を口にすると、「いいや」と彼は小さく呟いた。だがそれだけでは終わらなかった。
「俺よりも、彼に失礼だ」
 彼。キーアのことだろうか? いいや違う。たった一人しかいない。彼とは―――。
「あいつに、か……?」
 呟いた言葉は、答えとイコールで結ばれていたらしい。頷いたサイファーは、ワイン瓶にコルク栓を差し込んだ。
「こちらの俺を、好きだというのなら」
 ことんとワイン瓶を置いたサイファーが俺を見た。責めてはいない。ただまっすぐな目だ。子供に諭すような、そんな目だ。
「それは、お前の意志を通すべきだ」
 つぶやいた彼の目が少し横を向いた。何を見るでもない。やさしくその目蓋が、羽毛のように柔らかい動きで伏せられる。
 短い、決して口数多くはないサイファーの言葉をひとつひとつ反芻する。それらひとつひとつを噛みしめた。
「……そうだな、悪かった。よし、今日のところは休むか。お前は下段だ」
 気分を一新させるべく、明るい声でそう呼びかける。なんだかどちらが世話を焼いているのか分からなくなってしまった気もするが、それはそれだ。
 元いたサイファーの毛布はそのまま残っていた。基地のものだからなのだろうか。寒くないくらいに掛け布団がしっかりしているのを確認し、電灯の明かりを落とす。
「サイファー」
「……なんだ?」
 呼びかけたはいいものの、言おうとした言葉が悉く消えていく。結局、
「おやすみ」
 それだけを言うと、
「おやすみ」
 とかえってきた。それが嬉しかった。


 真っ暗な中、目を閉じて毛布に顔を埋めてみれば、ここには存在しないことになっているはずの男の感触がある気がした。
 入れ替わっているのが正しいならば、姿を見ることも声を聞くこともないだろう。影すらも幻のように取り留めのないもう一人のサイファー。
 ふと、向こうのピクシーはその彼と上手くやっているのか思案した。想像に難くない。あのピクシーも相当な世話焼きだからだ。
 不思議と心配のないまま、次第にまどろみの中へと落ちていった。


 食器の触れあう音に目を覚ました。重たい目蓋に霞む視界の中、壁に反射する朝の光が見える。
 もう朝か。まるで眠った気がしない。
 ああでもこの食器の音、きっとあのサイファーがコーヒーを入れてくれているのだろう。美味いコーヒーで目を覚ます喜びを噛みしめながら、起こされるまではもう少しうとうとした感覚を楽しもう。そう思った時だった。
 ふと気付いたのだ。その割にはコーヒーの匂いがあまりしない。それにどうも、ずっとかき混ぜるような音が続いている気がする。
「…………っ!?」
 飛び起きたというのがふさわしい動きで、俺はシーツを撥ねのけた。二段ベッドの上から見るとそこには褐色はなく、灰色の後頭部が何かをしている様子が見えた。
 その「何か」まで明確に見てしまい、俺は頭を抱えた。カップの中に注がれた液体に、挽いてあるコーヒー豆が浮かんでいる。沈没船が粉々になったような感覚にすら陥り、その浮かんでいる粉がとても悲しそうに見えた。
「サイ、ファー……」
 声をかければ、振り返る相棒の姿。何事もなかったかのように、相棒は言った。
「ピクシー。やはりどうも溶けない。今度もう一度最初から詳細にこれの作り方を教えてくれ」
「ああわかった。分かったからこっちに来い」
 ぱちりと瞬きをしたサイファーが、スプーンを置いてベッドに近づき俺を見上げた。夢の続きのようで、あまり現実味のない作り物を前にしているような感覚だ。
「もっとだ、もっと」
「上がればいいのか」
 意図が分からない、といった表情で、しかしハシゴを登ってベッドの上段に上がってきたところで、腕を回して細い体を抱きしめる。
 そうしてそのまま、ぼすんと横になった。
 染みいるような温かさは確かに本物で、適度な柔らかさもリアルで、後頭部に回した手に触れる髪の毛先がさらさらとしている。僅かな人間の匂いは夢でもなくまた作り物でもなかった。
「ピクシー」
「いい。何も言うな」
「……コーヒーが」
「あれは忘れてくれ頼む」
 そう、今だけは。後で手取り足取り、もう淹れ方を忘れたなんて言わせないくらい懇切丁寧に教えてやるまでは。
 だからそれまでこのままで。
 おかえり。








ゆめまたはゆめ
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