肌を打つ高い音が、その寒い空の下に響いた。
 たった今左頬を叩かれた男のプリーストが、アルデバランの石畳の上へ転がったところだった。その様子はハッキリと言ってしまえば無様なものだ。モンスターにやられたのか、いくらか怪我を負っている。銀というよりは白に近い髪の色が、儚さも相まってその姿を憐れに見せる。
 プリーストは叩かれたことに驚き、右頬に手を当て目を見開いて、たった今己の頬を打った相手を見た。
 聞こえる溜息。それはプリーストのものではない。目の前に立つ赤毛のウィザードが発したものだ。やはりぼろぼろの体で、切り傷などをそこかしこに負っている。
「やってられるか」
 ウィザードがプリーストを見下ろす目は冷たい。完全に侮蔑の意を含んだ視線である。さらにウィザードは続けた。
「何回ペアで廃屋に降りたと思ってんだ。最初の頃は慣れてないだろうからって我慢してやってたが、お前の下手さはほんっとイライラする」
「ま、待って!」
 上半身を起こして、それでも急には立ち上がれなかったために、右の掌と左の膝をつく形でプリーストは叫んだ。
「悪い所は直すから! 高レベルの人みたいにはいかないけど、でも頑張るから……!」
 必死の声音で叫ぶプリーストが、ウィザードのマントを掴む。その行為に激昂したウィザードは、左手に持っていた杖を両手に持ち、プリーストの左腕を容赦なく殴りつけた。
「痛っ!」
 プリーストが手を引っ込めると、
「顔も見たくねえ。もうそのツラ見せんな」
 突き刺さるような嫌悪の響きを持つ言葉を突き刺し、踵を返して赤毛のウィザードはその場を離れた。
 殴打された左手を胸に、以前地面につけたままの右手。ぽたりと流れる涙が残されたプリーストの頬を濡らしていく。
 アルデバランの復帰地点前で往来も多い中、人の目がある恥ずかしさよりもウィザードにされた仕打ちに涙が止まらない。締め付けられる胸と乱れる呼吸が苦しく、それでも喘ぎ声を押し殺そうとした。
 だが、涙を抑えようとするほど嗚咽が止まらない。冷たい外の気温が、一層悲しみを深くしているような錯覚すら覚える。
 その時、ふっと足元に影が落ちた。
「おい。大丈夫か」
 影に遅れて降ってきた声は、ひどく静かだった。あくまで静かなだけで決して冷たくはないのに、びくりと怯えてしまう。肩が震えたのを抑えるように法衣の袖を両手で握りながら、恐る恐る声と影の主へとプリーストは顔を上げた。
 逆光になっているのと、プリースト自身の目が涙で濡れているせいで最初はその人物がぼやけていたが、涙を拭って瞬きを繰り返せばそれも解消された。声と同じように静かな印象の青い髪と目。黒いマントを羽織り、手には杖を持っている男だ。
 黒マントの男は、プリーストの泣き顔にだろうか、驚いた顔を見せたがすぐに表情が戻る。
「泣いていたのか」
「な、なんでもないんです!」
 プリーストは言うと、何度も何度も袖で目元を擦った。擦りすぎて痛くなってしまうほどに。
「なんでもないのに、こんな道端で大の男が泣くのか?」
「それは……」
 全くの正論に言葉が詰まる。青い目を細めた黒マントの男が、「立て」と短く言うそばからプリーストの腕を引いて立たせた。引かれるままに連れて行かれたのは直ぐ傍の時計塔裏で、日陰の落ち着いた色と男に出された青ポーションのお陰で、プリーストは自分でも驚くほど気分が落ち着いていくのが分かった。
 青ポーションの瓶は空になり、瓶だけを謝罪して返した。それから、「あの」と少し戸惑いながらプリーストは話し始めた。
「ありがとうございました。すみません、恥ずかしいところを見られてしまって……」
「構わない。見たところ傷が多いようだが?」
 男の質問に、プリーストは顔を赤くした。慌ててヒールで癒すと、笑顔を見せた。笑顔になりきれていない、くしゃくしゃの苦笑だった。
「……死に戻りなんです。廃屋でやられちゃって」
「廃屋? プリーストがソロでか?」
 男が質問し、プリーストは頭を横に振った。
「相方の……ウィザードと一緒です。でも、僕が倒れて、彼もやられちゃって」
 口が次々と話を始める。止まらないのは、聞いて欲しい願いの表れなのかも知れない。裾を知らずに軽く握り、さらにプリーストは続けた。
「いつも、怒られてたんです。お前はどんくさいな、いつまで経っても上手くならないなって。今日もそんな感じで、ついには愛想、つかされ、ちゃいました」
 語尾になるほど掠れて涙声になる自分の声が恥ずかしくて、プリーストはきつく目を閉じ、唇もきつく噛みしめた。
「レベルは?」
 黒マントの男が端的に尋ねる。プリーストと相方のレベルのことだろうか。
「ええと、僕が75。彼が80です」
「75で廃屋?」
「彼が75から適正レベルだろ、って」
 黒マントの男は、それを聞き考えこむように口元に手を当てていたが、やがて腕を下ろした。
「多少の装備があっても、75で廃屋に行くのは支援の負担が大きいだろう。そのウィザードがどういう人間かは分からないが、自分より下で、たった75のプリーストに無理を強いておいて愛想を尽かすなら、その程度の奴だ」
 男の声は相変わらず静かだったが、その中に何か、少しの苛立ちのようなものをプリーストは感じた。
「でも」
「お前という人間を好きだから相方になったんじゃない。……聖職者という人間を相方をとして利用したんだろう」
 青い目の男は、瞳を細めて伏せた。腹が不思議と立たないのは納得してしまったからだ。相方は確かに自分勝手な男で、口煩かったし事あるごとに相方を変えると公言していた。
 でも。それでも。
「ルドは……相方の名前なんですけれど、臨時で誰も拾ってくれなかった僕を、最初に拾ってくれたんです。出会った時から不遜な態度だったけれど、狩りに誘ってくれて、ここ行くぞ、次はあそこ行くぞって言って誘ってくれたんです。僕はそれが嬉しくて……」
 話すうちに、また涙が溢れそうになるが、それをプリーストはぐっと堪えた。
「だから、僕がもっと強くなって彼をきちんと支援できるようになったら、また一緒に行ってくれるかも知れない。やり方は……これから探さないといけないですけれど……」
「そのウィザードが、強くなったお前を利用することになっても?」
 針のように鋭い男の問い。それでもプリーストは頷いた。ルドと共にした狩りは楽しいこともあったし、誘われたことが何より嬉しかったのだ。
「分かった」
 頷いたプリーストを見て、黒マントの男が短く言った。踵を返す彼が、先刻の相方の行動と被る。自分の言ったことに後悔はしてないものの、男の言葉を結果的に否定してしまい、気分を悪くさせてしまったんだろう、と罪悪感を覚えた。
 だが。
「これから時間は?」
 青い目の男は軽く振りむくと、唐突にそう尋ねてきた。
「えっ」
「時間があるならノーグロードに行くぞ」
「ノーグに……?」
 瞳を瞬かせるプリーストに、黒マントの男はこう言った。
「俺が何に見える?」
「ええと……」
 言われて、プリーストは再度男を観察した。黒いマントに杖。マントの下は白の魔法衣であった。一言でいうならば、ハイウィザードと呼ばれる職。ヴァルキリーに認められ、転生したウィザードのそれである。
「ハイウィザードさん、です」
「俺のレベルは95だから、悪いが公平は組めない。その代わりに、俺が知っているプリーストとウィザードのペア狩りの立ち回りは教える」
 ハイウィザードが手のひら大のカードを取り出した。パーティを組む際に使うカードだ。
「強くなりたいなら、来い」
 プリーストは、そのカードを取った。


 ハイウィザードはプリーストから戻ってきたカードを見て、
「名前は……アセス、か」
 そうプリーストの名前を確認した。
 アセスは手持ちの装備の質を尋ねられ、見栄を張ることなく話した。安全圏精錬のクラニアルバックラーならあるが、他はやはり安全圏のプパロンコやイミューンマフラーくらいしかないこと、靴や帽子の類いは店売り程度のものしかないことを告げた。
 少し恥ずかしかったが、ハイウィザードは何度か頷き、呆れることも怒ることも嘲笑することもせずに、倉庫からいくつかの装備を取りだした。アセスにそれらを渡し、装備するように告げられたので彼はその通りにした。
(ウィズダムビレタ? ウィローが刺さってるのかな?)
 そう思いながらビレタを被り、見たことのない接続詞のついたバックラーやセイントローブ、クリップにロッド、シューズを同様に装備する。見たところ相当古い装備品だが、いくらか過剰精錬されているのはアセスにも分かった。彼が安価なものではないものを貸してくれたことに、礼を述べた。
「でも、どうしてノーグロードなんですか?」
「近いし、廃屋は75では厳しいと判断した。ノーグはラーヴァゴーレムやグリズリーはいくらか恐ろしいが、他のモンスターならお前でも耐えられる」
 それは本当だった。確かに溶岩で出来たゴーレムや屈強なグリズリーは恐ろしかったが、カホやブレイザー程度なら耐えられないこともない。ハイウィザードが張ったセイフティウォールから出てしまったり、レベル1のストームガストで凍らせて止めたモンスターの氷を割ってしまったりして、最初の頃は戦闘不能になるかと思う程、攻撃されてしまうこともあったが、説明を聞きながら狩りをしていると、なるほど道理がわかってくる。
 それまでアセスは、決壊して全滅してしまったのは全てプリースト……つまり自分の至らなさだと思っていた。
 耐えるのは自分。倒すのは彼。彼を信頼して、ただひたすら耐えて支援を切らさないこと。自分が倒れることなど、あってはいけないと思っていた。それは決して間違いではないけれど、ただ耐えるだけじゃない、その時の立ち回りが必要なのだと分かってきたのだ。
「耐えきれないなら逃げることを選ぶ。抱えれる分だけ抱える。後衛は後衛で、時には支援の手助けをする」
 一つ一つそう言いながら、モンスターの群れに突っ込んだアセスにセイフティウォールを出し、威力は弱いが素早いストームガストを展開した。先から行っているその行動は、要は時間稼ぎだ。凍っている間に撤退したり、体制を立て直したりするのだと、ハイウィザードは言った。
 この数のモンスターならば、倒せる量だ。ハイウィザードの頷きは無言のものだったが、一瞬で察した。
 自分へヒールを飛ばして回復させる間、後ろに庇っているハイウィザードの周りに魔力が集まっていくのが分かる。プリーストのアセスにも分かる程、巨大なものだ。それが彼の杖に凝縮され増幅していく様は、ぞくりとして胸が高鳴った。こんな状況でなければ、口を開けて見入ってしまいそうだ。
「右に許容のない視線」
 顰める声。それは呪文だが、相方のルドのものとはまるで雰囲気が違う。同じ内容の呪文だというのに。
 集まった魔力が辺りの気温を下げていく。マグマが吹き荒れる火山の中だというのに、その冷却力と言ったら凄まじい。右手の杖をアセスの向こうで凍りついているモンスターらに翳し、左手をその杖に添えるようにして動かした。
「左に慈悲のない意思」
 彼の指先あたりの空気が、ぱきぱきと音を立てて凍っていく。このタイミングだ。腕を翳してサフラギウム。そのタイミングも今回の狩りで掴んだことだ。
「残酷なる王妃の吐息よ……ストームガスト!」
 最初は、心臓が止まるかとすら思った、強い魔力を解放する様子の、目に見えないうつくしさに心奪われる。もしかすると、ウィザードならば魔力を目視することができるのかも知れない。だが聖職者……それも未熟なアセスには、魔力の流れを目に映すことは叶わない。
 そんなアセスでも、呪を唱えてはためくハイウィザードのマントや衣服、飛び散る氷の欠片をうつくしいと思った。
 計算したかのようなタイミングで、モンスターらが先のストームガストによる氷結状態から解放される。その頃には既に展開していた増幅つきのストームガストで、ラーヴァゴーレム以外のモンスターが倒れ伏した。
「アセス、リカバリー」
 声はハイウィザードの指示だ。はっとして、見とれていたアセスがリカバリーを唱えると、凍りついていたラーヴァゴーレムにストームガストが再ヒットする。溶岩の塊はあっという間に冷え、沈黙した。殴って氷を割るのはコツがいるので、一体程度ならリカバリーが手軽だと、これもハイウィザードの弁だ。それは的確だった。
「だいぶ覚えてきたな」
 呪文の疲労か、軽く息をついた後にハイウィザードはそう言った。まだぎこちない動きだろうとアセスは自分で思うが、確実に立ち回りを身につけていることが自分で分かる。喜んでいいはずだ。
 ふと、アセスは思った。なぜ彼はこんなに、見ず知らずの自分に色々と教えてくれるのだろう。やはり彼にも初心者の時代があるはずで、その時はこうして誰かから、知識を得たのだろうか。
「ハイウィザードさんも、昔は色々教えてもらったりしたんですか?」
 問いに、ハイウィザードが少し考えて答えた。
「そうだな、師に当たるハイウィザードがいたが、すぐにどこぞへ出奔してしまった。それからは臨時や……プリーストと公平を組んでペアで狩った」
「プリーストと……」
 思わずアセスは呟いた。やはり彼にも、そうしてプリーストとウィザードでパーティを組んだ経験があるのだ。
 伏せられるハイウィザードの目が、過去を思い返しているのだろうと想像させる。少し切なそうで、懐かしそうで、複雑な気持ちが入り混じった青い目が細まる様は、アセスに己の胸を撫でたくなるような不思議な気持ちにさせた。
「強くなりたいと思っていたし、日がな一日中狩りをして尽くした。レベルは上がっていったが、俺の心はついていかず逆に焦るばかりだったな。……アセス、狩りには何が一番必要だと思う?」
 急な問いかけとこちらに向けられた真摯な眼差しに、アセスは少し驚いたように目を見開き、やがて思考しつつ答えた。
「ええと……、装備とかレベルとか知識とか……?」
「気持ちだ」
 ハイウィザードが淡々と告げた答えに、アセスはきょとんとして瞳を瞬かせた。
「お前が強くなるやり方を探したいといわなければ、こんな狩りに連れてこなかったし何も教えなかった。この狩りだけじゃない。人と人が行動をともにすることは、気持ちがないと何もならない」
 ハイウィザードの言葉は、言葉だけを聞いていれば説法のようだったが、その実彼自身に言い聞かせて確認しているように感じた。彼の青い目が、瞑想をしている時のような少し遠くを見ていたし、まるで過去の自分に言うように、杖を撫でていたから。
 アセス自身が強くなれば、確かにルドはそれを目当てにするかも知れない。けれどアセスの聖職者としての強さより、アセス自身をルドに見てもらえたら、
(変わるものも、あるのかも)
 言葉が自分の中の意思に変わる。アセスは杖を握った。意思を確かめるように。
「ハイウィザードさん」
 未だ名前も知らない青い髪と目をした魔術師を、アセスは呼んだ。
「僕、ルドともう一度会います」
 はっきりとしたアセスの言葉に、ハイウィザードが頷いた。
「なら戻ろう。ポタを。……ああ、ドロップは半分ずつだ」
 にこりと、そこで初めてハイウィザードは、快晴の空のような笑顔を見せた。


<<ハイウィザードさん! ルドがまた組んでくれるって!>>
 パーティチャットに、アセスの声が響いた。アセスが思っていた以上に事が進んだのだろう。声は朗らかで、泣き出しそうなほど嬉しそうな声だった。
<<あのルドが、そんなに頑張ったなら見てやるって!>>
 なおもアセスの声が続く。だが返答がない。数秒、数分待つが、一向に答えはなかった。
<<……ハイウィザードさん?>>
 呼びかけながら、アセスはパーティ情報を示すカードを見た。
 そこには、自分の名前しかなかった。


 それから暫く時間が流れ。
「ルドっ! ルド、危ない下がって!」
「うっせえな!」
 アルデバラン時計塔の地上四階で狩りをする、白い髪のプリーストと赤い髪のウィザードの姿があった。場所と立ち回りから、中々の手練……未転生ながら相当レベルが高いことを感じさせる。
 プリーストの指示でウィザードが下がった。文句を叫びながらも数歩距離を取り、セイフティウォールを二つ三つ撒きながら更に後退した。レベルの弱いストームガストがアラームやミミック、ライドワードを凍らせ、凍結しないオウルバロンとその取り巻きを前に出たプリーストが抱えた。
 ウィザードにサフラギウムがかかる。ハイウィザードほどの魔力が望めない分、ストームガストを重ねることで何とかその場のモンスターを全滅に導いた。
 飛び散る羽毛やら本のページやらを拾いながら、プリーストが言う。
「ちょっときついけど、やれないことないね」
「まあな。……しかしお前、だいぶ上手くなったよなあ」
「ん? 何か言った?」
 収集品をカバンに詰め込み、切れた支援をかけなおす。ウィザードは髪をかきあげ、ぼりぼりと少し掻いてから答えた。
「なんでもねえよ」
「少なくとも、最初のころ廃屋で転がってばかりだった時よりは良くなったかな」
「聞こえてんじゃねえか。ま、あの時はお前、弱かったし何にもなかったもんな」
「うん」
 存外、素直に頷いた白い髪のプリーストに、赤毛のウィザードはきょとんとした表情を見せた。
「でも、今だから少し気づいたんだけど」
 カバンに詰め込んだものの重たかったのか、いらなさそうなものをその辺に放りながら、プリーストが言う。
「あの時って、思うようにレベルが上がらなくてルドも焦ってたし、僕も人盾とか移民くらいしかなかったからルドは廃屋選んだんだよね。ものすごい不器用だけど、一応僕のこと考えて、みたいな?」
「う……うるさいな、ほら次行くぞ!」
 走り出しつつ発した言葉に、プリーストも笑顔で頷き、支援を掛け直して後に続いた。
 その横をすれ違った女のハイプリーストがふと足を止め、同じパーティのハイウィザードに話しかけた。
「ねえ、今の白い髪したプリーストの子」
「あいつにそっくりの髪色だって言うんだろう?」
 女神の仮面をつけたハイウィザードが、魔法力増幅の合間に言う。ハイウィザードの脳裏には、転生前に組んでいた亡きプリーストの姿があった。そして目の前のハイプリーストの女も、同じ人物を思い浮かべているはずだ。
「なによう。相方だったあなたのほうが、あんな感じの白い髪を見たら思い出すと思ったのに。思い出したのはあたしだけ?」
 口を尖らせた彼女に、ハイウィザードが唯一見える口元に笑みを刻んだ。
「そうでもないさ」