蝶の羽根を千切り、見慣れた景色にうんざりした。
フィゲルの高台にその家はあった。
小さいがしっかりとした、木製の家。フィゲルは海岸にある村だったが、今の時間は風も緩やかだ。見る限り、住みやすそうな村だった。
家の前には子供が三人座っており、何やら話をしていたが、一人の子供がこちらに気づく。
他の二人も気づき、駆け寄るが、その子供たちをエルヴィスがたしなめた。
そうしてセレナーデに、少し小さな声でこう、言った。
「中に。すぐ判るよ」
何が中にいるのか、すぐ判るとは何のことなのか。
セレナーデはそれに対して、問わなかった。
ただ吸い込まれるように、木製の扉を叩くべく、手をかざし。
「、……」
躊躇う吐息、足が少し竦む。手が震えそうになる。
しかし、この扉を叩かない理由はなかった。叩かければ…、何の為にあのバードを、遺してきたのか分からない。
コンコン、と扉を叩く手の力は思いの他に弱かったが、それは中にいる者にはしっかり届いたようで。「はーい」なんて、少しばかり気の抜けた返事が返ってきた。
ああ、この声―――。
懐かしくて、泣き出したいくらい懐かしくて、思わずそのまま立ち尽くしたくなる、声。
響くドアノブの音。開いた扉から、長い袖がちらりと見え、その先を辿る。
途端に、目頭が熱くなった。
赤のシャツにキツネの襟巻きは、プロフェッサーの衣装の他なく、ウィザードであった彼とは別人かと思いきや、違った。
髪の色も真逆で、銀色が今は黒だったが、顔の造りはまるで同じ。少し年を重ねたのはお互い様。
何よりもその目が、幾つも薄い緑を重ねたようなその目の色は、記憶の中の彼と全く同じだった。
名前を呼ぼうとしたが、掠れて上手く言葉にならず。先に唇を開いたのは、相手の方だった。
「……、セレナ」
薄く笑んで、同じ声で呼ばれたことは、ひどく重みがあった。
「中にどうぞ」
言われて中に入ると、椅子を勧められた。それに腰掛け、またプロフェッサーも向かいに座る。
「聞きたいことは山程あると思うと思いますが―――」
何でも答えましょう。
絶やさない笑みを前に、懸命に質問を探した。
そうだ、山程ある。もう子供ではなくなってしまうくらいの、長い間会っていなかったのだから。
「そう、だな。リヴァル…」
若干、躊躇うような沈黙が流れ。自分を落ち着かせるように息を飲む。
「何故姿を消したんだ。何故今まで―――」
激情を堪えるべく、法衣の裾を握り締めた。
「帰ってきてくれなかった」
「…すみません」
知らずのうちにうつ向いていた顔を上げると、プロフェッサーは悲しそうな顔でこちらを見つめていた。
「実のところ…、君のことを知ったは、つい先程なんです」
「何…?」
「何から説明して良いものやら…」
そう言いながら、プロフェッサーは懐から二枚のカードを取り出した。
テーブルの上にその二つを並べたが、片方は殆ど原型を留めていないくらいに、ぐちゃぐちゃに潰れており、相当昔のものらしい血痕が、べったりとついていた。
「今の私の名は、」
もう片方を、指で示す。セレナーデが持っているものと同じ、冒険者の身分を示すもの。
そこにある名前は、
「リヴァース、です。プロフェッサー・リヴァースといいます」
そして血塗れの冒険者証とおぼしきものを指さし、
「五年前、私は酷い怪我と共に、このフィゲルに運ばれました。怪我のせいかは分かりませんが、それまでの記憶を全て失い、唯一身元を知る手段の冒険者証もこの有り様でした」
血塗れのカードの名前は、途中から血の汚れで読めなかった。辛うじて、名前の頭である、Reveまでと、当時のレベルである88の数字だけは確認できた。
「名前を読める部分だけでも入れて、私はリヴァースとなりました。マジシャン、セージを経てプロフェッサーになっても、過去のことは思いだせなかった」
「…エルヴィスが来るまで?」
大きな吐息と共に、セレナーデは言葉を吐いた。エルヴィスは顔見知りどころか親類であるし、大まかな事情を心得ている。
プロフェッサー―――リヴァースは頷いた。
そしてテーブルの上に、両手を出して手のひらを上に向けて開いて見せた。
「セレナ、手を…握ってもいいですか?」
黙って、セレナーデは手を差し出した。相手の手がそれを包み、ぎゅっと握る。
「エルヴィスくんの姿を見ても、記憶は戻りませんでした。それでも、彼は賢明に話をしてくれた。過去の私自身のこと、エルヴィスくんのこと、そして、君のこと」
泣きそうな顔の口元に、笑みを少し湛え、
「思いだせなくとも…、沸き上がるこの不思議な気持ちが、君のことを大事だったと教えてくれています。だから、」
リヴァースの片手が離れ、セレナーデの腕を包むように添えられ、
「今は、おかえりなさいと言わせてください」
それを聞いた瞬間、ふっと力が抜けた。
額をつないだ手にくっつけ、涙を隠すように、零した。
ワープポータルの光が消え、ジュノーの我が家がそこにあった。
だか、家には入らずに、足を止める。
「…出ていったのかと思った」
嘆息をつきつつ、セレナーデは言った。返答は、すぐにあった。
「…勘違いすんな。蝶の羽使ったら、ここに飛んじまっただけだし、」
くぐもった声が、次第にはっきりする。
戸口の前に、探偵帽のバードが座り込んでいた。頭を垂れ、初対面の頃を思い出させた。
「合鍵返してねえし」
立ち上がった青い髪のバードは、ずれた帽子を直して鍵を投げ寄越した。反射的にそれをキャッチする。
手のひらの中にある、その鍵を見下ろし、セレナーデは深く嘆息をついた。
「これでお前に預けたものは、全て返してもらった訳か」
半分だけ預けた気持ちも、合鍵も。鍵を返したということは、この家も出るのだろう。
もう会わなくなるのかも知れない、と思った。
すると、バードが被りを振った。
「……?」
セレナーデが疑問顔で目を瞬かせる。するとバードは―――双夜は、突然セレナーデに掴みかかった。
「おい…!?」
「…かえせ」
胸ぐらを掴み、だがうつ向いているため、セレナーデから詩人の表情は窺えなかったが。
「は?」
と問いかければ、反応は直ぐ様返ってきた。
「返せよ」
「何を…」
「俺の心、返せよ!」
怒声と同時に顔を上げ、眉間をこれでもかというくらいに寄せ。
「お前に惚れちまう前の! 俺を返せよ!」
「………」
怒りなのか悲しみからか、みるみるうちに深い青色をした目が涙目に変わり、セレナーデはされるままに立ちすくんでいた。
明らかに無茶な詩人の要求も、一蹴できなかった。口は悪くとも、騙されやすいくらいに素直で、聞き分けも良い双夜。だからと言って俺への感情が諦められる程度のものでは、なかったのだと、掴まれた首元の窮屈さが教えていた。セレナーデはその事に、言葉を見つけれずにいた。
だが反応を示さないことに、双夜はさらに激昂した。利き腕を離して、大きく振り上げ、怒りのままに振り下ろし―――、
「…っ、」
目を閉じて顔を逸らし。衝撃に備えたセレナーデの頬を、グローブをつけた手が、ぺちん、と軽く叩いた。
閉じてしまっていた目を開けると、泣きそうなくらいに、くしゃくしゃの顔を隠し、バードをもう片手も離して背を向け、
「…帰る」
ぐしぐし、と袖で乱暴に目元を擦った。
「どこへ?」
すかさず、セレナーデの問いかけ。
「どこへって…、アビスの家に厄介になってもいいし、アマツに帰ってもいいし…」
「お前の家はここだろ」
驚いた双夜が、少しだけこちらに向き直る。だがすぐに、疑念の表情を見せた。理由なく信じることはできない、とその表情が告げる。
空気を変えるように、セレナーデが深呼吸を一つ。
「フィゲルにいたのは、リヴァルだった」
そう言うと、双夜はさらに険しい顔になった。
「だがな、それだけだ。確かに―――大事な人だが」
腕に添えられていたリヴァースの手が、離れて肩に回る。
顔を上げると、目が合った。
「セレナ、良かったら。私と暮らしませんか」
提案は、予想内だったような、予想外だったような―――。いや、そこまで考えていなかったのかも知れない。
答えに窮していると、頬に暖かい手が触れた。示された空気に従って、目を閉じる。近付く気配。触れる鼻先、だが。
唐突に、目を開いた。瞬間、唇が触れるほど近付いていたリヴァースの顔が、小さな声をあげて離れる。
「…どうしました?」
「リヴァル、…ごめん」
身を引き、テーブル越しの彼をじっと見遣り。
「俺は、あんたを探して確かめたかったんだ」
「うん」
「大事な人なのは、今も前も変わらない。ただ…、恋愛になる気持ちじゃ、ない」
上手い言葉を探し、一つずつ単語を繋いだ。「うん」と、子供の様子を見守るような顔でリヴァースが頷く。
「あんたが俺の事を覚えていないからとか、そういうのじゃない。だから―――」
最後の言葉に困り、唇を噛むと、リヴァースが苦笑じみた笑い声をあげた。
「分かっていましたよ。今の君には、昔とは必ずしも同じではない気持ちや、生活や…、環境があります。私を見つけたからと言って、確かめたかったものを全部、無理に繋ぐ必要はないと思いますよ」
それに、と一つ間を置き。
「大人の姿をした子供みたいで、…その様子を見ていたら、段々と…、何となく。分かりました」
あなたの家に、戻りなさい。
「大事な人だが、それだけだ。今さらどうこうしたい訳じゃない。ちゃんと生きている、それだけでいい。別に一緒になったりはしない」
合鍵を双夜に向けて突き出し、
「俺が知らん間に、お前の心を持っていっているなら、返す必要は―――…いや、こんなのは、俺らしくないな」
そう言って、セレナーデは言葉を切った。双夜の手に合鍵を握らせる。
「おかえり。…あとそれから、」
すっ、と唇同士が軽く触れ、
「…ただいま」
Special Thx. セレナーデの中の人