ああ、昨夜はどうしたんだった?
そうだ、確か昨日は非番で、朝は相棒のコーヒーになってないコーヒーで起こされ、基礎訓練の後グラオ2にいつも通り睨まれて、昼飯の後に鴉の小僧とカードゲームで遊んで負かしてやって、夜は相棒にやっぱりいつも通り本を読み聞かせて寝たんだった。
最近は若干慣れてきたが、朝あのコーヒーで起こされるのが日課になっていて、どうやら「コーヒーを淹れる」という行動に味を占めたらしいサイファーは、そのためだけに俺より早く起きる。
ところがこのコーヒーがとても酷い。挽いてすらいないコーヒー豆を湯と一緒にカップに注がれた時は、どうしようかと真剣に考えたほどだ。豆は挽いて使うんだと教えたが、きちんと出来るのかどうかは怪しいところだ。
シーツの合間からかろうじて見える時計は、朝だと告げている。こぽこぽと熱湯を注ぐ音に、スプーンでかき混ぜる音。カチャンとスプーンを置く音までいつも通りだが、ひとつ大きく違うものがあった。匂いがとても良いことだ。
なんだ? とうとう上手にコーヒーを淹れる方法を覚えたのか?
「サイファー……?」
己の予想よりもずっと寝ぼけて嗄れた声に驚きつつ、そう呼びかけると「おはよう」と一言返答があった。
途端、沸き上がる強烈な違和感があった。おはようだって? あのサイファーが? 「ああ」だの「なんだ」だの、そんな返事はちゃんと返す奴だが、おはようなんて言われたことは実は一度もないのだ。
ばさりとシーツを避け、身体を起こして二段ベッドの上段から下を見下ろす。
見慣れていた灰色の頭は、そこにはなかった。代わりに褐色の髪色が目に飛び込む。振り返り、こちらを見た目も同じ色だった。
二段ベッドの上段にいるせいで、いつものサイファーを上から見下ろすと随分距離があるものだが、今日ばかりは違った。目の前にいる褐色頭の男は背丈も高く、顔が思いのほか近い距離にある。
呆然と凝視する俺に彼はカップを置いた。波々と注がれた黒い液体。コーヒーの香り。
男はこんなにもまじまじと凝視してくる俺を咎めはしなかった。ただ、
「飲まないのか?」
そう尋ねた。
「あ、ああ……すまない」
はっとしてベッドの上段から降り、まじまじとそのコーヒーを見やる。一口口をつけると、
「ふむ」
と男は呟いた。そうして自身のために用意したコーヒーに口をつけ、今日の朝食のメニューを聞くのと同じような、静かな口調で、
「それで、あんたは何者だ?」
と尋ねた。
カップを落としそうになったがある意味では安心すらした。その質問がなければ、俺はこの状況を夢で済ませるところだ。
「ということは、これは夢じゃないってことだな……」
「夢で済むなら簡単でいいんだが」
「まったくだ」
淡々とした口調の中に混ざる、ほんの少し人間味のある言葉が心をほぐす。
俺は改めて男を観察した。年は俺と同じ位だろうか。あいつは年の割に背丈が低いせいで十代にしか見えないが、目の前のこいつは年相応だ。名を呼んであいさつが返ってきたのだから、こいつもサイファーであることは間違いない。
……というよりも、これがまた大変不思議で理屈が分からないことだが、なぜかひとつの仮説が根拠もないのに浮き出てきた。こいつとあいつは、入れ替わったんじゃないだろうか。
「なあ……サイファー」
「入れ替わったか? という質問ならそうだと思ってる」
ずずず、とコーヒーを啜る合間の言葉に、ああやはりと妙な合点を得る。根拠もない、理屈も分からないというのに、だ。
「理由は分からないよな」
「ああ」
「どうやって戻すのかも」
「ああ」
「だよな」
吐息を吐き、片手で頭を抱えた。
「ところでピクシー」
声をかけられ、顔を上げる。
「俺は本来ならば今日は非番なんだが、こっちはどうなんだ? 見たところ俺のいた基地とは違うようなんだが」
「違う……? ヴァレーじゃなかったのか?」
「いいや。ヴァレーではあるが、俺の部屋は個室で相部屋でもなければ二段ベッドもない」
「なんだと……」
少々頭が混乱してきたが、そう言われて今日のスケジュールを思い出す。少し早めの昼食を採り、昼から哨戒飛行だ。
待て。飛ぶのか? こいつと? こいつがあちらでも「サイファー」と呼ばれているのならば腕に問題はないだろうが、組んで飛ぶとなるとまた別の不安要素が出てくる。思えば、こちらのサイファーとの初任務の時は、俺は翌日の昼まで横になるという思い出すのも恥ずかしい状態に陥ったのだ。
「昼から哨戒だ……。機体は大丈夫なのか?」
「よほど妙な機体でなければ大概どんな機体でも問題ないとは思うが、気になるならハンガーに行くぞ」
「ああ」
カップを置いて、上着をベッドの脇から引っ張り出す。それを羽織りながら慌ただしく部屋を出た。
当の本人であるサイファーは、平然とした様子で部屋を同様に出てた。涼しい顔をして扉を閉め、頭をぐるりと巡らせる。視線が、「ハンガーはあちらでいいのか?」と尋ねていたので、俺は頷いた。
小走りでハンガーまで向かったせいで、通りすがった奴からは「どうした?」などと笑われたりしたが、耳にも入らなかった。ハンガーに一歩足を踏み入れた瞬間、俺は口を半開きにして呆然と見てしまった。
俺のイーグルの隣にあるのは黒いフォックスハウンドではなく、F/A-18C……ホーネットだったからだ。
人と人がどこぞの次元だ世界だかを超えて入れ替わるのも大概イカれた話だが、あんな大きくデカい戦闘機すらも入れ替わるのはもっと不可解だ。
「どうしたピクシー。予定は昼からだろ?」
多少恰幅の良い、中年の整備師がそう問いかけてきた。整備師は汗と油の混じった額を手の甲で拭い、ぱちぱち目を瞬かせている。
しまった。後ろのサイファーのことをどう説明するべきだろうか。いやそれ以前に、一晩で入れ替わった機体の説明を考えないといけない。
「あ、いやこれはだな……」
「何も問題ないぜ。むしろ今日の整備は完璧だな。後でまたチェックはしてもらうがな」
「……何も問題はない?」
ゆっくりと復唱した言葉に、整備師は不思議そうにまた瞳を瞬かせたまま頷いた。
「どうした、何か心配事か?」
「い、いや……」
「サイファーも問題ないだろう?」
整備師が俺の後ろにいるサイファーにそう尋ねる。「ああ」と涼しい声でサイファーは頷いた。そうして俺の上着の裾をつんつんと引っ張る。
「なんだ?」
「こっちに」
引っ張られるままハンガーの端まで行き、俺はサイファーが喋るより先に口を開いた。
「どうなってるんだ」
「これは憶測なんだが」
考えごとをしている様子で、サイファーは自身の顎を指でとんとんと叩いている。
「なんだ、言えよ」
「入れ替わった、と気づいているのは俺たちだけなんじゃないか?」
「どういうこった?」
「俺たち以外の人間には、俺が入れ替わったことにすらなっていないんじゃないか?」
まさかそんな、と言おうとしたが先刻の整備師の態度を思い出す。中年の整備師は、このサイファーを確かに「サイファー」と呼んだのだ。まるで本来の俺の相棒である、あいつにそうするかのように、だ。
「おーい、お前ら」
整備師の声が聞こえ、振り返る。
「昼になる前に食事採っとけよ! お前ら朝食を食べにこなかったろう」
「良く見てやがる」
食堂にいなかったのに気付いていたのか。だがそのとおりだった。少し状況が分かってきたことで、コーヒーしか口に入れてないことをも思い出せば、それは腹の空き具合も同時に思い出す結果となったのだった。