insane【インセイン】

常軌を逸した、正気とは思えない、ばかげた、愚かな、精神障害の

「きみって、あんまりエレゼンっぽくないよねえ」
 賑やかな雰囲気のカーラインカフェで、ヒューリはそんな呟きを洩らした。
「えっ」
 向かいに座る青年が目をぱちくりとさせる。緑色の髪をした青年だ。
 普段は斧を携える青年だが、学者の覚えもある。ヒューリは学者の先達であったので、いくらか彼にアドバイスをしたこともあるが、素質があった青年はその後自己流でスキルを身に着けていった。
 青年――エルネストは「そうかなあ」と呟いてラプトルシチューをスプーンでひと掬いした。
「イシュガルド生まれイシュガルド育ちなんだけどな。孤児だったし、貴族と縁なかったからかも」
「ふうん? ま、でも確かに気さくで、お貴族連中の雰囲気はないかな~」
 一方でヒューリはレンズ豆を掬って、口に放り込んだ。グリダニアではありふれたメニューである、レンティル&チェスナットだ。ワインで煮込まれた豆と栗がほくほくした食感を出している。
 カーラインカフェではミントとペッパーでスパイシーに仕上げているが、第七零災の前は食塩と蜂蜜で味付けされていたレシピで出す店が多かったのを、ヒューリは口にするたびに思い出す。
「ああ、でもイシュガルドなら、第七霊災の時はひどかったでしょ。一面緑だったのに、今じゃ雪国だもんね」
「それもあって、黒衣森に来たんだ。そっちに来てからのほうが、人っぽい生活してたかも。でも育ててくれた人もエレゼンなんだよね」
 ラプトルの肉を味わいながら、エルネストは少し顔を上げて思慮に耽った。
「シェーダー族だけど、あんまりそれっぽくないかも。彼の影響なのかな」
「野党に拾われたとも思えないね」
「普通の冒険者だよ。黒魔でさ」
「へえ!」
 エレゼンの黒魔道士とは少し珍しい気がした。少し興味をそそられたヒューリの白い耳が、ぴくりと揺れる。
「ルナくんっていって……衣食住で安心させてくれたし、知らない事とか、冒険者の心構えとかも教えてくれたりして――今は討伐とか一緒に行くこともあるよ。どっちかと言うとヒューリくんの方が冒険者スタイルみたいなの似てると思う。討伐とか討滅とか、よく行ってるみたいだ」
「ふうん。いいね。今度僕も連れて行ってくれない? その黒魔、見たいな」
「もちろんいいよ!」
 即答したエルネストに、ヒューリは満足げな顔をした。
「やった。楽しめるといいな」
 そう言って、テーブルの上の魔導書に触れる。
 その本は学者のそれではない。ヒューリの本業である召喚士の魔導書だった。


 つまるところ、それが出会いの切っ掛けだった。
 正直なところ、別段心惹かれたとかそういうものでもなかった。
 ただ、対人を好むエルネストとその育ての親。二人の冒険者は妙にちぐはぐで、気に留まった程度というのが正しい。
 初対面での印象は、「噂通り」だったし、エルネストに似た温和で優しい雰囲気のもので、得心はしたものの心動くほどでもなかった。
 同席した討滅戦で勝負を申し入れた時すら、本当にただの思いつきだったのだ。エルネストは戦士として優秀だし、彼が集めたメンバーなら恙なく終わるであろう討滅戦に、ほんの少し塩胡椒を足したかっただけ。
 それが、ヒューリが開幕のアク・モーンでタンクに次いでヘイトを集めた様を見て、すぐさま薬を飲み干した黒魔道士の姿で一転した。
 あのエレゼンの黒魔道士は、勝負を申し出た召喚士が食事を入れたから知力を高める薬を飲んだわけではない。
 普通にやっただけでは負けると判断したからこそ、ブーストする方向に舵を切ったのだ。
 あの穏やかそうな目元、自己主張の少なさそうな雰囲気の男が!
(しかもあれは、激情家だな)
 ベッドもない自室のアパートで、幾つも並んでいる本棚から本を選びながら、ヒューリの口元は笑んでいた。
(あの手のタイプは好奇心が強い。表に出さないようにしてるだけだ。面白くなってきたし、お近づきになりたいなら土産は用意しないとな)
 いかにもあの黒魔道士が惹かれそうな蔵書を束にして、アルドゴードレザーで作られた紐で括る。それを持ったヒューリは、いつになくうきうきとした顔をしていた。
 ラベンダーベッドのアパートから出た先で、召喚士の飼いチョコボが待機しているのが目に入ったが、白いチョコボの背には既に何束か本が載せられている。
 お宅訪問のアポを取ったはいいが、選びきれなくて多くなった本を眺めたヒューリだったが、「うーん」と唸ったのも一瞬だった。
「ま、手土産は多いほうがいっか」
 悩みは早々に投げ捨てて、「行こうか」と彼はチョコボを撫でた。


 かつて面倒を見たエレゼン少年は、すっかり青年になった。エレゼンという種族自体、急激に背丈が発達するのもあり、今はすっかり逞しい体格に恵まれた冒険者になっている。
 その知り合いだという召喚士は、ミコッテらしい小柄さを持つ青年であった。
 例の勝負をした討滅戦の後も、彼とは何度かエルネストを通して討伐に同行した。回数を重ねるうち、人となりも少しずつ判り始め、直接やり取りするようになったところで、召喚士から「手持ちの本持っていくから、そっちの蔵書も見ていい?」と申し送りがあったのだ。
 社交的な人々が使う、挨拶程度のものかと思っていたが、彼は本当にシロガネまでチョコボを連れてやってきたのである。
 両手にたくさんの本を抱えた召喚士を、家の中に通して、
「居間へどうぞ。ひと束持つよ」
「あー、助かるう。前見えないから」
「それなら無理しないで、持てる分だけ持って往復しますよ」
「ええ、持てるは持てるからいけるいける~」
「変なところで横着だね……」
 言葉通り、本の山をひと束受け取ったルナは、彼を居間に通した。
 居間の壁際にあるユールモア式のソファにそれらの束を置いてた召喚士は、改めて部屋を見渡す。
 シロガネの外観からは想像できないような、石造りの壁と蔦植物。食事を撮る為だけのテーブルがあった。そして何より目を引くのは、幾つも本棚だった。
 ヒューリは素直に感嘆した。
「ふうん。いい部屋だね」
「内装は作ってもらったんですよ。洞窟住まいがテーマだそうで」
「いい趣味だ」
 にっこりと笑って見上げている彼を、ルナは横から見た。すっと伸びた背筋で体幹の良さを感じさせる。
(本当に来るんだなあ……)
 改めて、ルナは彼の社交性に舌を巻いた。彼の事はルナも少なからず興味を抱いているし、決して悪く思っていない。
 最初こそ、単純に戦闘へ同行しただけの仲。彼が無邪気そうに「火力勝負しよう」などと言わなければそれだけで終わっていただろう。
 掴みどころのない性格。軽薄さ。しかしながら巴術に造詣が深いのはもちろんのこと、アラグをはじめとする歴史学やエーテル学の引き出しも多く、存外に話していて不快ではなかった。
 興味深そうに距離は詰めてくるくせに、何にも本気になっていない素振りを見せてくる。
 けれど知っている。詠唱する横顔。正面から見たときの丸い目が眇められて、鋭さが一瞬で強調される様を。
(あれは……好かったな)
 そう思いながら、ソファに座ったヒューリをルナは立ったまま見ていた。我が家のようにソファへ座って寛ぐミコッテは、壁に身体を預けながら本を束ねていた皮紐を解いている。
 そこにあの鋭さは感じられない。
「なあに?」
「えっ」
「そんなに見られちゃ照れるでしょ?」
 本を適当に開いて顔を上げないまま。ミコッテのヒューリが言うのでルナは瞠目した。そんなにじっと観察しているつもりはなかったのに。
「照れるような性格じゃないでしょう」
「照れてるかもしれないじゃん? それで?」
「いや、あの……」
「うん?」
「この間の……勝負したときの事を思い出してました」
「ああ~、結局二人共最後に吹き飛んでオシャカになったやつ。あれ面白かったなあ」
 からからと笑って、ヒューリは本を閉じた。途端にルナは恥ずかしくなってきてしまった。
 あの時、とんでもなく熱くなってしまって――翌朝まで木人を叩いて寝ていなかったと知られたら彼になんと言われるか。
「でも、決着つかなくて良かったかもね。実力は拮抗としか言い様がなかったもん。あそこで白黒ついていたらつまらないよ」
「つまらない、ですか」
「きみのことはエルくんから聞いていたから、どんな黒魔かと思ったら! 予想よりずっとずっと面白そうだった」
 ねー? とヒューリは傍らのイフリート・エギに同意を求めた。エギは何も言わずに暫く佇んでいたが、
「合縁奇縁……マスターは、ルナ・アズリーを強い興味の対象としている」
 静かにそう言うのを聞いて、ヒューリは満足そうに白い耳を揺らした。
 落ち着かない素振りでルナは尋ねる。
「エルネスト君は、自分のことを何と?」
「もっと楽な言葉遣いにして」
 わざとらしくそう言うヒューリに少し困って、ルナは「ええと……」と前置きして一拍置いた。
「俺、の事を何て?」
「人間らしくしてくれた恩人だって」
「エルネスト君……」
 真っ当になるようにと育ててきた青年を想って、じんと心が熱くなる。あの頃の自分がきちんとした生活を送れていたのも、同居人であり育てていた彼が同じ家にいたからこそだろう。人を育てるということは、同時に自分を大事にすることだと実感する。
 彼は本当によく育ってくれた。素直すぎて心配になる気がしないでもないが……。
 そんな心を読んだかのように、ヒューリは言った。
「よくもまあ、あんだけ真っ当に育てたもんだよ。善性の塊って感じでさ。太陽みたいにぴかぴかして、いつ貶められるのか愉しみだって言いたいけど……僕も死に場所は選びたいからねえ」
「そんな、物騒な」
 脳裏にエルネストが色々な意味で懇意にしているシェーダー族の青年を思い浮かべて、ルナはそう窘めた。
 エルネストに何かあれば、かの青年がすぐさま飛んでくるに違いない。
 いつものように笑って、ヒューリがソファの上の尻尾を揺らす。
「エル君は召喚士は向いていないと思ったから教えなかったけれど、学者の覚えはよかったね。体質もヒーラーに合ってる。性根も癒し手向きだ」
 ぱたんと尻尾がソファに倒れ落ちた。
「君は彼に、もっと汚い部分も教えるべきだった」
 一瞬、ヒューリの金色の目があの冷たさを感じさせた。
 どきりとする。深淵を覗き見るのと少し似ていて、しかし確実に違う感覚だ。
 飲まれそうな感覚になって、ルナは何度か唇を開いて閉じてを繰り返した。そうして言葉を絞り出す。
「生きていれば確実に知ることになる。それに知らないことで救われることだって……だからあれでいいんです」
「それで苦労することもあるだろうに。まあでも……知ることでおかしくなるものもたくさんあるしね。それでいいとしようか」
 そう言ったヒューリが本をテーブルに置いて、「あふ」とあくびを出す。その様子を見てルナは慌てた。
「あ、すみません。来客に茶も淹れないなんて。すぐに……」
「あー、いいよ、いい。でもちょっと眠くなってきて」
 ごろんとヒューリがソファへ横になった。
「え、ちょっと?! ここで!?」
「や~、実はここのところあんまり寝てなくって」
「そ、それなら無理しなくても良かったのに」
「僕が言った軽口を丁寧に拾って、明日空いてますけど、なんて君が教えてくれるからさあ。もちろん行くでしょ?」
「ええ……」
 確かにヒューリが蔵書を見たいと言っていたのを気にして、具体的な日程を提示したのはルナだが、いくらなんでも傍若無人すぎではないだろうか。
「ねるう……」
 金色の目をとろんと閉じるヒューリに、ますますルナは慌てた。
「か、帰って寝たほうがいいよ!」
「めんどくさあい」
「それならベッドを貸すから……そこにあるし!」
 おろおろしながら言ったルナの目の前で、来客者は猫のように丸くなってしまった。しかも既に寝息を立て始めている。
「ええ……」
 困ったな、とルナはその様を見下ろした。ソファの目と鼻の先にベッドはあるのだが、寝ていない相手を運んで起こすのも気の毒だ。ユールモア式のディヴァンタイプソファできれいに収まっているので、ルナはため息をついて手を掛けるのをやめた。
 せめて風邪を引かないように、何か掛けてやるべきだろう。そう思ってベッドシーツを手に取り、ふわりと掛けてやる。
 そこで、気付いてしまった。
 寝入ったばかりだというのに、普段は緩すぎるくらいの眉がきつく寄っていて、苦しそうな吐息を吐いているのを。
(うなされてる……?)
 寝入りも早く、寝付いてから夢を見るまであまりにも早い。
 途端、心配が首をもたげた。
 何かよからぬものに侵されているのではないか。呪術師としてヴォイドと関わった経験が一瞬にして脳裏を奔っていく。
 寝ていないと話していたのも気になった。それに彼は冒険者、しかも召喚士だ。よからぬものに関わる機会は多いはず――。
 そしてふと、思いついてしまった。
(エーテル交感すれば、あるいは……?)
 何か一端を観れるかもしれない。少なくとも悪影響を及ぼすようなエーテルなら、すぐに気づけるはずだ。
(よし……)
 肩口に手を掛ける。その刹那、ぱちんと視界が弾けて頭が急に重くなった。
 渦を巻くかのような憎悪、苦悶の声。叩きのめせと叫ぶ何かたち。
 戦火の平野と血の匂い。無念の声。不気味な合唱のようであり、その参加者が次々増え、倒れて次々減っていく。
 蛮神たちと、蛮神たちを造ったものたちの怨嗟に手を引っ張られて落ちていく。
 様々な戦場と殺戮の場があり、けれど誰かがそんな中を笑って歩いている。愉しくて仕方ないといった風に。
 残っているものへ楽しそうに踊りながら火をつけて、巻かれる炎に人が残っていても構いやしない。
 この世のどんな地獄だって、あの時よりはマシだ。
(あの時って?)
 様々な意識に引っ張り込まれながら尋ねたところで、急に意識がはっきりした。
 眠っていたはずのミコッテが、ルナの腕を掴んでいた。
「寝入りを襲うなんて大胆」
 にっと笑っている顔を前に、ルナの表情は引きつった。寝起きだというのに、金色の目が燦々と輝いている。
「ヒューリ……くん。今、魘されて……」
「うん? ああ、みんなそう言うんだよね。べつになんともないのに。あー、でも、まだ……眠いかな……」
 掴んでいた手を放して、ヒューリは掛けていたシーツを首元まで寄せた。一瞬見せたあの輝き、鋭さはすぐに眠そうなそれに変わっている。
「ねかせて……おやすみ……」
 そう言って、ものの数秒でまた眠りの淵に落ちていく。
 ルナはどっと冷や汗をかいた。
 なんだあれは。あれが召喚士というものなのか。
 己のエーテルに溶け込んだ蛮神たちが猛り狂って彼自身と同居している。正気と狂気の間みたいだ。
 ああ、でもそうか。そうなのか。
 バハムートとトランスしたり、喚び出すというのは、ああいうことなのか。
 戦闘時どころか日常的にトランス深度が深いんだ。なのに自我を保っているのは、自分を切り離してしまっているからなのか。
 恐怖とか苦しみとか。そんな部分に蛮神が住み着いているようなものなのか。
(それってまるで、蛮神の性質そのものなんじゃ……?)
 ルナの背筋がぞわっとする。寒気に肩を抑えながら、寝顔を見下ろす。難しい顔と言えば柔らかいが、明らかにうなされた寝顔をまた見せていた。
 起きている時のあの笑顔には、この翳りをまったく感じさせない。
 だから余計に、
 そんな彼が恐ろしかった。