けつう【血雨】

泥雨(でいう)ともいい、黄砂や火山灰が混じった雨。

 ウルダハで雨が降ることは少ない。
 少ない雨天を狙った深夜の裏路地は、何年か前まではもっと貧民が多かった。アラミゴの状況が変わり、ゴールドソーサーの雇用も安定している上、ウルダハ自体の状況も少しずつではあるが改善されていっている。
 少しギルを握らせて、気の毒な貧民たちに雨の夜をしのげる宿を教えてやる。
 それですべては整った。
「ひい、ひいい!!」
 がらんとして暗い裏路地は、一目散に走る一人の男の声も雨で消されていた。見るからに富豪の装い。ルガディンの男だった。
 鋭い突風が吹きこみ、彼の足を著しく傷つけた。叫び声をあげて倒れた男へと、カウル姿の人物が歩み寄る。
 腕の力だけで逃げながら、男はその人物を見上げた。見上げた視線の先にいるヒットマンは意外に小柄で、その身体付きを見上げて富豪は恐怖心よりも怒りをじわじわと覚えたらしい。
「くそっ! ちくしょう!」
 富豪はヒットマンのカウルの裾を無理に引っ張るが、引っ張り返される。その反動でカウルのフードが取れて後ろに流れた。
 冷たい表情をした白髪のミコッテが立っていた。
 ムーンキーパーらしい丸い瞳孔を持つ金色の目は、この雨よりもずっと底冷えするような恐ろしさがあった。
「……!!」
 ルガディンの富豪は、すっかりその恐ろしさに威圧されていた。
 カウルの隙間から、鈍い光が覗く。雨に濡れていく短剣を見て、ルガディンは一気にまくし立てた。
「誰の差し金だ! 私が、私が砂蠍衆が一人フィルガイス様ともつながりがあることを知ってのことか!?」
 ミコッテは答えなかった。そのまま短剣をすっと振り上げる。裂かれた足を引きずって、「やめろ」と刃から逃げながら怒りと恐怖でルガディンの富豪は歯の根を鳴らした。
「やめろ……くそ……ミコッテも獣人と変わらんじゃないか……見てくれだけの奴隷種族めが……」
 ぴく、とミコッテの耳が動いた。反応は即座。ひと息でルガディンの口を片腕が塞ぎ、もう片手の短剣が正確に心の臓を捉えていた。
 くぐもった悲鳴が辺りに響かない。ただただ雨音が煩い。大柄なルガディンを抑えつけるために、片足を腹の上へ叩きつけた。短剣を逆手に持ち替えて急所を抉ってやると、しばらくして動きが停まっていく。
 かつて砂蠍衆は獣人排斥を方針として打ち出した。もちろん獣人とは蛮族と呼ばれているアマルジャやコボルトなどのことを指すが、未だ種族性質的にマイノリティーであるミコッテは都合よく侮蔑されることがある。
 そう、都合のいい存在だ。
 富豪に囲われるミコッテの女は多い。いや、囲われるなんて生易しい表現で済むような環境ばかりじゃない。
 人身売買はエオルゼアにおける暗部の一つだ。そして奴隷として売り買いされるのは女に限らない。無論それは闇の中のひとつに過ぎないが、確かにあるのだ。
 短剣を引き抜いたミコッテは、それをカウルの内側に隠した。依頼でさえなければあと百は刺してやりたいところだ。
 その時、耳がまたぴくりと反応した。
 誰かがいる。そう気づくのが遅かったと肌で知る。
(人払いしたはずだ)
 こんな何もない裏路地に誘導するのは苦労したのだ。せいぜい浮浪者くらいしかいないし、そいつらもよそへやった。
 誰が。
 振り返った先、路地のずっと向こうに同じようなカウル姿の人物が立っていた。
 自分よりも背丈が高い、とミコッテは思った。同業者か、とも。体格的にハイランダーやエレゼンではない。ルガディンでもなさそうだ。
(殺るか)
 どうせ死体の始末は依頼主が取りつけた別の奴がやる算段になっているのだ。むしろ彼らがくるまでにさっさとこの目撃者を処理するべきだ。
 明らかにこちらを見ている目撃者は、一歩ずつ歩み寄ってくる。しかし数ヤルム先で立ち止まった。いやな間合いだ。もう数歩踏み込まれたら、そして相手の獲物が長剣などであったら不利になる。
 しかし、目撃者は不意に言葉を発した。
「ヒューリ?」
「えっ」
 ずっと噛み殺していた声が漏れた。
 目撃者の男がカウルのフードを落とす。
 ヒューリの口から吐息が溢れた。
「マキちゃん……?」
 フードの下から出てきたミッドランダーの青年は、同じパーティのナイトだった。
 ナイトは少し驚いたまま、エーコンナッツのような色の目を見開いていたが、ヒューリの足元に転がる肉達磨を見て、
「……死んでるのか?」
 と尋ねた。
「そうだって言ったら?」
 ヒューリはカウルの下で血濡れた短剣を握る。
 面倒なことになった。同じパーティである以上、彼の力量は身に染みている。いつもは背を見ながら守られる立場であるが、短剣ひとつで制圧できるのかどうか。
 先刻はターゲットの足を止るために一瞬だけガルーダを喚んだが、蛮神を召喚してもなお仕留めるには難しいだろう。それに、いかんせん召喚魔法というのは派手だ。時間がかかれば隠密ではなくなる。
(一撃、いや二撃。イニシチアブを取れなければ逃げるしかない……。あーあ、いいパーティだったな。楽しかったのに)
 仕方ない。そう胸中で意思を固め、相手の出方を伺う。わずかな隙も逃さないように。
 だが。
「逃げるぞ。ついてこい」
 マキが、はっきりとそう言った。
 このうるさい雨音でも聞き取れるくらいの、明瞭さだった。
「え……いや、何言ってるの。やったのは」
「ここに留まっていたらまずいだろう。いいからここを離れるぞ」
 ナイトは詰め寄ってヒューリの手を掴んだ。
 殺気はない。
(殺るか?)
 ヒューリの脳裏を掠める。
(でも、殺気がない)
 死体を残して引かれるまま裏路地を早々に抜けると、「待て」とマキが制した。先に隣の通りに繋がる路地を覗き見て、しっかりとヒューリを見た。
「大丈夫だ。カウルを脱いでそこのエーテライトに入ろう。ゴブレットビュートの3区に来てくれ」
「何で?」
「俺の個人宅がある」
「きみ、家持ってたの」
「いいから早く。今なら誰もいない」
 マキが肩を押した。


 ひた、ひた、と足音が聞こえてきてマキは顔を上げた。
 カウルどころか鎧もすっかり脱ぎ、ラフなシャツ姿でザナラーン式のカウチに腰かけてながら、風呂あがりのミコッテを見る。
 マキと似たような前開きシャツ姿で彼は立っていた。ヒューラン仕立てのものをミコッテが着ているせいで、裾と袖がやや長くなってしまっているが、肩回りは問題なさそうだった。
 頭に乗せたタオルの下から金色の双眸が覗いている。
「匂い、落ちたか?」
「うん」
「サイズも悪くはないな」
「ぱんつまでありがと」
「新品おろしてやったんだから感謝しろ」
 ズボンの裾をロールアップして、裸足でひたひたとヒューリは近づいた。カウチの空いているスペースを見遣る。ザナラーン一帯にはまだ雨が降り注いでおり、雨音が心地よいくらいの音量で聞こえてくる。
「掛けていい?」
「ああ。何か飲むか?」
「うん」
 座るヒューリと入れ替わるようにマキが席を立った。
 すぐ目の前のバーカウンターからワインを取り出している姿を観察しつつ、ヒューリはじっと思考する。
 彼は東方の出だ。ガレマルドに属州化された故郷で徴兵されたがエオルゼアへ逃げ出してきた……。それが彼の弁である。
(偽証か? いや……同業者ならその経歴はかえって納得できる)
 同業と見せかけて、依頼主を敵視する人物の差し金か。
(もしくは僕個人の恨みを持つ人物。心当たりが多すぎる)
 そんなことを考えながら、カウチに座ったままでも隙を殺していた。
 やがてマキはワイングラスを二つと瓶を手に戻ってきた。そして表情を見るなに、彼は言う。
「言っとくが、誰の差し金でもないぞ」
 コツンとワイングラスをテーブルに置いて、顔も見ずにマキは座った。人ひとり分のスペースを空けて、コルク栓にオープナーをねじ込んでいく。
 は、と笑ってヒューリが言う。
「信じられると思う?」
「始末するならあの場でやっていた。死体が一つ増えても変わらんだろ」
「だからって下手人を匿うかな?」
 雨でいくらかは落ちたとはいえ、返り血をあれだけ浴びてただの通行人だとは思うまい。それを解っているから彼も自分の家に引っ張り込んだのだ。
 マキはグラスにワインを注ぎ、ヒューリに差し出すと、自分の分のワインも少し口に含んだ。
 目の前で開栓したのも、先に飲んだのも、混ぜ物がないというマキなりのアピールだ。
「別に。仲間を助けるのは普通だろ」
「……殺しだよ。普通じゃない」
「普通だよ」
 明らかに普通じゃないことを、マキは言った。
 ヒューリは難しい顔をして押し黙る。
「……全然、普通じゃないよ」
 そうとしか言えなかった。マキもただ黙った。雨音が部屋に落ちていって、壁にかかっているカーバンクルり時計が少しずつ時を刻んでいく。
「俺は、あの死体がどうやってつくられたかを見ていない」
 マキがやっと口を開いた。
 つまり、ヒューリが刺したところを見ていないと言いたいらしい。彼は更に続ける。
「冒険者の中にはなんだってやる奴もいるだろう。綺麗な身柄だって言えるやつも、そうじゃない奴もいる。俺だって……」
 そう言って、ナイトは黙った。
 別に、彼のことを清廉潔白なナイトだとは思っていなかったが、ヒューリの事情を察するような「何か」はあるらしい。
 それに、とマキは続けた。
「一緒にやりたいと言ってきた奴を失いたくはない」
 ヒューリはワイングラスを取り落としそうになって、こぼさないようにテーブルへ置いた。
 ぱく、と口を動かして「あー、えっと……」と話し出す。確かに彼のパーティに加わった時、そう言ったのはヒューリのほうだったが。
「そんだけの理由で?」
「俺には十分すぎる理由だ」
 はっきりとそう告げられて、ヒューリは言葉を失ってしまった。
 冒険者なんて星の数ほどいる。何も僕じゃなくたっていいだろうに。
「ばかみたい……」
 つい本音が滑り落ちていった。
 マキは、効率主義だ。攻略には容赦がない。でもこんな庇い方はぜんぜん効率的じゃない。
「呆れた……負けたよ。何が聞きたいの?」
 どっかりとカウチに背を預けてヒューリが肩を竦めた。わざと可愛げのないことを言ってみたが、
「別に何も」
 マキの返事は自然体そのもので、彼に裏がないことはもう解っていた。
 いいや、多少裏があってもいいとすら思い始めていた。こんな言葉を引き出せたなら、もうそれでいい。そんな馬鹿らしい気持ちになっていた。
 タオルを乗せたままの頭を、引き寄せた膝の間に埋める。
「話すような込み入った事情もないけどね。一度こっちの稼業に手を出すと、なかなか縁が切れないってだけの話」
「俺だってザナラーン暮らしは長い。驚かないさ」
「いい意味でも悪い意味でもザナラーン人ってわけだ?」
 マキが苦笑した。あまり笑わない彼にしては珍しかった。心の全てを許したわけではないが、少なくとも今すぐに及ぶような危険はない。
「それで? 僕はどんなお礼をすればいいのかな? えっちなことでもする?」
「しない」
「でもきみ、ルカちゃんのこと好きでしょ?」
 問いかけると、マキが目を見開いた。転がる死体を見たときと同じ、あるいはそれ以上の驚きよう。
 答えかねたような吐息。
「……いや」
「嘘つき」
 畳みかけると、彼は押し黙ってしまった。ヒューリは体勢を崩してワインボトルに手を伸ばすと、残り少なくなっていたマキのワイングラスに中身を注いだ。
 レイドのために組んでいるパーティの戦士のことを思い浮かべる。無精ひげのある黒髪のミッドランダーだが、おおらかで人の細かな機微には気づきそうのない鈍感な男である。
 そして性的嗜好はごく普通に女性が好きな、マジョリティでもある。
 勝てない戦いをしないマキが、「言う」はずがない。
(ははあ……)
 ヒューリはワインボトルを置きながら気づいた。
(マキちゃんは、無意識に彼を求めてる)
 レイド攻略では去る者を追わないドライな彼だが、今この場ではまったくらしくない。そこがまた、この上なく彼を人間たらしめているような感覚があった。
 そんなドライな彼の性質と、好きな人を求める人肌寂しさが反発しあって、無意識化でここまで大げさに庇ったのかもしれない。
 ああ、それなら話はシンプルだ。そしてずっと、マキを信用することができる。
「よし、じゃこうしよう」
 注ぎ終わって空いた手を、再び引き寄せた膝の上に置く。
「好きを伝えられなくて辛くなったら、また呼んでよ。ここでもいいし、どっかのバーでもいいし。そしたら気が済むまで聞いてあげる。今日のお礼にね」
「好きじゃない」
「うん、それでいいよ。好きなんて自白しなくてもいい。愚痴聞きくらいの気持ちでいいからさ。ね」
 微笑みかけると、マキが白髪のミコッテを見た。
 ああ。と、ほんの小さな返事が、マキの唇から落ちた。