IVAN RODINA, NOV 3 1995


 それは恐怖と知った。
 おかしな話だ。自分自身の危機よりも、他人の事を考えた時のほうが、指が震える。歯の根が合わくなる。
 この手で撃ち落としたものが、もう戻らない。
 それと同時に、撃たれたことの、意味を考え始める。
 手足のように、身体の一部と言っても過言ではない操縦悍に触れることすらできなくなって、自分は変わってしまったのだと実感してしまった。
「イヴァン」
 呼び声に上半身のみで振り返る。座っているのだから、自然とそんな振り向き方になる。
「風邪を引くぞ」
 牡丹雪の中、知らぬ間に立っていたキーアが手を伸ばした。イヴァンの頭に乗っていた雪を落とす。
 キーアの黒髪にも、僅かに雪が乗っている。それが何故だかおかしかった。
 ヴァレー空軍基地は、頻繁に雪に覆われる。冬の気配が強くなれば、その頻度も増す。四月にだって雪が降るのだから。
 思い返せば、妖精がいた頃の自分は、外に出ることなどほぼなかったと言うのに、「サイファー」でなくなってからは、外やハンガーにいることが多くなった。
 滑走路に感慨などなかったと言うのに、今はよく眺めに行ってしまう。そうして何とも言えない感情が湧いてきてしまう。名前をつけることは、まだできないし、それが何故なのかも良く解らないが、これも「さみしい」という気分なのだろうか、と見当をつけるようになってきた。
「キーア、どうしてお前は俺になったんだ?」
 質問は、ごく穏やかに行われた。少し厳しい表情をする「サイファー」に、ほんの少しだけ、口の端を上げる。
「ガルム1ではなくなって、飛べなくなったから傭兵でもないのに、なぜ俺はここにいるんだろう」
「それは」
「分かっている。角が折れた鬼でも、町に放すわけにはいかない」
 適当に丸めた雪玉を、その辺にぽい。そんな手慰みすらも、以前の自分にはなかった行為だ。
「ウスティオが、ではなく、お前が、か」
「そう。自分でも分からないからな」
 片羽の二度目の帰還を目にしたいのか。自分の代わりにサイファーになった男の、先を見たいのか。
 あるいは、もっと別の何かなのか。
 単に、何もなくなった自分が身を寄せるのに、都合が良かったからなのかも知れない。そう思えば、情けないのと同時に皮肉めいた気分になる。
 こんなに、心とはゆらゆら動くものだったか。
 また丸めた雪玉を、放りなげようと腕を上げた瞬間、その手首が掴まれた。雪玉がぽとりと落ちる。
 こんなに、肌とは暖かいものだったか。
「また髪に雪が積もってる。中に入るぞ」
 立ち上がるのを促すように、軽く引っ張られる。立ち上がり、下半身の雪を落とすのを、キーアは暫く見ていたが、やがて基地のほうへと踵を返した。
 こんなに、キーアは悲しそうな顔をする男だったか。
 そんなことを考えながら、その後を追った。



LIENHARD "CIPHER" KIAR, NOV 3 1995


 彼はよく、空を見ていた。それは彼が「サイファー」で、キーアが「シュヴェルト」であった頃からだ。
 今は、空を見ているだけでなく、外に居ることもたびたび見かけるようになった。牡丹雪の舞う寒空の下、座り込んでいる銀灰の髪。
 何というわけではない。ただ、そのまま放っておくとずっとそこにいそうだと思ったからだ。中へ入るように促そうと、雪玉を投げようとした手を掴んだ、それだけだ。…ただ、それだけなのに。
 掴んだその手は、あまりにも頼りなかった。少し力を加えれば折れてしまいそうな気がするほどに。訓練からも離れたからだろうか。記憶にあるそれよりも、ずっと、細すぎて、言葉に出来ない。

『どうしてお前は俺になったんだ?』

(…どうしてだろうな)

 今にして思えば、自分でもそう思う。ただ、いえることは、自分は彼を守りたいと、そう願っているということ。そのために、「サイファー」になったのだということ。奪うだけでも、奪われるだけでも、悲しすぎる。
 味方にまでも恐れられる、鬼神という肩書き。そして、片羽という相棒。そのどちらをも失ってしまった彼は、自分を守る術を持たない、か弱い存在になってしまった。それを、知ってしまった。
 そうして、身を守る盾も敵を払う剣も失った彼を戦場に一人取り残せるほどに、非情にはなれなかったのが、自分だった。だから、リーンハルト・キーアは、イヴァン・ロディナの居場所を守るべく「サイファー」となり、今も傍にいるのだ。
 けれどその願いは、この上ないほどのエゴに満ちている。守って欲しいと願われたわけでもない、ただの自己満足。だから、そんなことを彼に告げられるはずもなかった。








やみくもに手繰り寄せた手
Trennen Sie es nicht.




後半部分は、S真先生に頂いたテキストに若干の加筆修正を加えました。