LIENHARD "CHIPER" KIER, DEC 30 1995


 部屋に戻ると、いつものように彼は空を見ていた。
 外に出ていないのは、先の基地襲撃の件を鑑みて、だ。さすがにあの黒い鳥が何匹もいるとは思えないし、この短期間のうちに二度目の襲撃もしてこないとは思うが、外に出すのが心配ではない訳ではない。
 大人しくイヴァンは忠告を聞き入れ、ここ数日は部屋にいることが多かった。
 しばらく彼の様子を見ていたが、やがてベッドに腰を下ろし、髪を拭く。端的に言えば風呂上がりだった。
「キーア」
「ん…?」
 彼から話しかけてくることは、珍しかった。
「カノーネは?」
「…見つかっていない」
「………」
 答えれば、黙りこむ。懐から懐中時計を取り出し、時刻を確認した。2350時。いい時間だ。
「そろそろ日付が変わる。眠ったほうがいい」
「…寝たくはない」
「手を握っていてやろうか?」
 振り返ったイヴァンが、ゆっくりと横に被りを振った。
 ゆっくり近寄り、ぼすん、と懐に飛び込んできた。いつものように頭を撫で、しっかりと抱きしめる。
「これがいいのか?」
 尋ねると、また被りを横に振った。これ以上、自分に出来ることを模索する。
 やれることなど、決して多くはない。共に居て、手を握り、抱きしめて、撫でて。それくらいしか、己の手でしてやれることが思いつかない。
 言葉を重ねれば重ねるほど、己の浅ましさを露呈するだけのような気がした。ただ、自分が彼を守ってやりたいという、利己的な欲求だけで傍にいるだけだ。
 妖精不在の今、彼を庇護の対象から、それ以外の特別なものにしてしまうには、卑怯だと思った。元々、己のものにしたくて保護してきた訳ではない。
 肩口をぎゅっと掴む彼の腕の強さを見て、もしや、と思う。
「…いいのか?」
 思わず、尋ねていた。それまでの彼ならば、その意味すら分からないだろう、問いかけを。
 だが、
 こくん、と頷く感触が、確かに胸元から伝わってきた。



IVAN RODINA, DEC 30 1995


 頷いたのは、確かな意思を持ってのことだ。
 ここでキーアの手を掴んでおかなければ、もう二度と会えない気がした。彼は何も云わないが、恐らく次の作戦は明日だろう。
 俺の代わりに飛んで、俺の傍にいつもいて、かつての仲間であるグラオ隊のメンバーは全員、いなくなって。
 相変わらずその気持ちに名前はつけられないのに、空をいくら眺めても、以前のような「何もない感覚」には戻らないというのに。
 ただ、あやふやな感情の中で、今この瞬間だけは、簡単には眠っていけないと、思ったから、だから頷いてみせた。
「キーア」
「…ん?」
 互いに背を向け、顔は見えないが、名前を呼んだ。
「どうして、止めたんだ?」
「…今は、だめだ」
「今は?」
 問い返しながら、気分が優れないのを自覚した。苛々しているというのだろうか、俺は。
 くしゃ、と頭を撫でられたが、ベッドに座ったまま振りかえらなかった。
「今日は休んだ方がいい」
「…眠りたくない」
「待っていろ」
 立ち上がる気配、その少し後に扉から出て行くのを音で察した。
 ちらり、と扉を見やる。駄々をこねたことは自分でも分かっている。彼の機嫌を損ねてしまっただろうか。
 こういう時ばかりは、こんな気持ちを知りたくなかった、思い出したくなかったと思う。
 ややあって、キーアはきちんと戻ってきて見せた。手の中に白いマグカップがあった。甘ったるい香りはココアだ。
 差し出されたそれを、少しずつ飲みほした。寒い基地の中では、沁み渡るような暖かさだった。
 いつものように、身体を預けるのもばつが悪く、暫くじっと窓の方ばかりを見ていた。ふと、部屋の景色が霞む。
「…?」
 目をこする。さっきまで少しも眠くはなかったのに。
「眠いのか」
 腕が伸びて、抱き寄せられた手を掴む。
 押し寄せる眠気、比例して広がる不安。
「キーア…」
 今眠ったら。いけない気がするのに。
 意識がどんどん霞んでしまって、落ちて行くばかりで。
 行くな、と言いたいのに、言葉も出なくて。
 飛べなくなって半年も経ったというのに、ようやく今頃になって、
 俺は何もできない。無力なのだと心から思った。








歪んで灰色のゆめをみる
Der tiefe Himmel