IVAN RODINA, DEC 24 1995


「恋したことも、ないんだろうなあ、お前」
「ない」
 端的に、一言で答えた。だろうな、とクーゲルは苦笑する。
「人生で一回くらいは、心の底から好きなやつができる」
「俺にも?」
「誰にでも、生きていれば、な。一目惚れみたいな分かりやすいものもあれば、一緒にいるうちに、ドツボにハマってくこともある」
「ふむ」
「何を投げうっても好き、と思えるような恋愛をしとくといい。想いあうことは成長になる。失恋もな」
「失うことが成長に?」
「必ずしも恋が叶うもんじゃないってこと、知っておくって意味でな」
 思い出すと、クーゲルの言葉にどきりとする。
 恋愛、失恋。失うこと、届かないこと。
 必ずしも恋は、かなうわけじゃあ、ない。



LIENHARD "CIPHER" KIER, DEC 31 1995


 薄暗くなってきた雪景色の中、見なれた後姿が遠ざかっていくのが見えた。フライトスーツの襟元を立て、慌てて後を追う。さくさくと雪に足を取られつつも。簡単に追いつきそうだ。
 ハンガーから降り、もう一人のサイファーの姿がないことに気付くと、その足で基地の外に出た。すぐに姿が見えたのは幸いだった。
「イヴァン!」
 叫ぶと、それに反応して振り返る。目の前まで追い付き、腕を捕まえて抱き寄せた。
「ひとりで…どこへ行くんだ?」
「戦争は終わった」
 返答は、すぐに帰ってきた。顔が見える程度まで身体を離すと、変わらぬ青い目が見えた。ただ、初見の頃とはどこか違う、知性的とも意志の力とも取れる光加減がある気がした。
「俺はもう、きっと飛べない。ここにずっといると、お前に頼ることになる」
「……」
「キーア」
 名前を呼ぶ声。
「俺は、お前が好きだ。キーアという男が好きだ。でも―――」
 その目が翳る。ほんの少し瞼が下がるだけで、まるで別の表情になる。
「これも、失恋というのだろうか」
「失恋…?」
 突然飛び出す単語に、目を瞬かせた。イヴァンが苦笑のような、辛そうな笑い顔を見せる。
「…さようなら、ありがとうキーア」
「待て!」
 またも、叫んだ。身体を離そうとする、彼の腕を辛うじて引き留める。
「一人で…大丈夫なのか?」
「これ以上は、お前に頼れないから」
 ほんの少しだけ、口の端が上がるのが見えた。
 一人で立てるならば、俺はもう必要なかった。だから彼が望むならば、送り出すのがいい。一度は壊れそうなほどに、大きな変化を遂げた彼が、再び歩けるようになったのなら。
 ただ、突然の別れに戸惑いも隠せなかった。予想はしていたはずだ。自立できる日がくれば、手元から離れていってしまうこと。
 そんな気持ちが、腕を捕まえる指先に出たのだろうか。
 突然、イヴァンは俺の胸を両の手で叩いた。
 強い衝撃に、顔をしかめる。見降ろした胸元で、薄灰色の髪が揺れる。絞り出すような、か細い声。
「…お前は、ずるい」
 突然の言葉に、「何?」と呟いたが、それはあっさりとかき消された。
「言葉にはしないのに! お前の手は俺を捕まえたままだ。一緒にいることで、かけている負担を消してやりたいと思うのに、俺のために使っている時間を、返してやろうと思ったのに、なのに!」
 ばしん、ばしん、とさらに胸を強く叩かれる。握りこぶしが震えていた。
「お前は、何も云わないのに―――お前を見ただけで、なぜこんなに離れにくく…なる」
「……」
「好きではないんだろう、俺のことは! せいぜい、手のかかる子供を見守る気分だったんだろう!?」
 激昂に駆られ、服が皺になるほど、彼はきつくきつく、服を握りしめ。
「俺がお前に持つような、気持ちではないんだろう…?」
 そうして服越しに、爪を立てた。
「お前が、嫌いだ…」
「…初めて、嘘をついたな」
 爪を立てるイヴァンの頭を、そっと撫でた。かすかに震えているのが分かる。
「お前の世話を焼いたのも、代わりに飛んだのも、俺がそうしたいから―――ただの、自己満足だ。確かに、…子供の世話を焼いているのと変わらないのかも知れない」
 ひとつ、吐息を落とし。
「…否定は、できない。お前と同じ気持ちでは、きっと、ない」
 そうだ、だから抱けなかった。
 ピクシーがいないあの時は、彼の不在のうちに手を出すことはできないと。そう思っていたが、今は違うとはっきり分かってしまった。
「けれど、お前を守りたいから、そうした。エゴでもなんでも、本当の気持ちだからだ。それだけは」
 たとえイヴァンの、いいや、サイファーの持つ愛情と種類は違っても、嘘偽りないこの気持ちだけは、離れていくにしても、伝えなければいけない。
「だから、ここに帰ってきた」
「………」
 沈黙に、嗚咽がまじる。ぼろりとこぼれる涙を指で拭い、しばらくそれを見下ろしていたが、白い吐息がひときわ大きくなる。
「おかえり、キーア」
 その声は、ひどく優しい重さを伴っていた。
「ピクシーが戻っても、お前が戻っても、どちらか一人では―――どちらが戻っても悲しいと思った。けれど、お前が戻ったら…こう言おうと思ってた」
 ようやくそこで、服を掴む指を少し緩め、胸に額をぶつける。
「素直に言えなかった。…ごめん。どんな気持ちでも、俺とは違う気持ちでも、俺が好きなら、一緒にいてくれ」
「…ああ」
 雪の中で、しっかりと身体を抱き寄せる。
 これでようやく、俺の戦争は終わったと、思った。








されど、譲れないもの
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