IVAN "CIPHER" RODINA, MAY 28 1995
「鬼神だ」
聞こえたセリフに、ぴくりと耳が動いた。
振り返ると、その様子に驚いた何人かの傭兵が、一気に散開した。少し息を吐き、ハンガーから廊下に入る。
敵であるベルカの機密兵器、エクスキャリバーの破壊。「円卓」の制圧。そのが終わるころから、どこからかイヴァン―――いや、サイファーを指して呼ばれる名があった。
円卓の鬼神だと。
(…俺は、そう名乗ったことはない)
ふと、心の中で呟く。
鬼神だの悪魔だの、勝手な呼び名をつけては、勝手に畏怖の対象にされ、勝手に羨望の対象にされ、勝手に距離を置く。
必要以上に人と関わらなくて済むのは良い。さすがに「心がない」などと言われているのだ。愛想がないのは自覚済みである。距離を取ってくれるならばそれでいい。
なのだが。
「よう鬼神」
進行ルートを遮るように、どこかの隊の男が道を塞いだ。
(―――これは困る)
「俺は、そう名乗ったことはない」
先刻も心の中で言ったことを、そのまま復唱する。男は眉を吊り上げた。
「おいおい、あんな目立つ飛び方をしといてそれか? 然るべき結果なんだぜ、何十も何百も戦闘機を撃ち落とした、結果だ」
「…?」
男の言いたいことが、イヴァンには理解できなかった。
雇い主であるウスティオが、命令を下したのだ。だから敵を撃った。
敵だからだ。
敵だから。
「お前は、ベルカを敵とみなしていないのか?」
疑問を口にすると、男は目を見開いた。腕を同時に振り上げる。
「手負いも不調機も容赦しねえ、誇りがないっつってんだよ!」
太い腕が振り下ろされる。瞬間、
「Fox2」
びくり! と男が震えた。声のした方向、男の背後には片羽が立っていた。
「俺達は助けを求めたお前たちを援護した。少なくとも味方に対しては温情ある判断をしてるつもりだぜ?」
ピクシーの口元は笑っていたが、目は笑っていない。怒りがゆらりと垣間見える。
「サイファーの戦果が気に入らないって、素直に言え」
「なんだと…」
「やるか?」
静かに、ピクシーの呟く声。不利を悟った男は、「くそ」と吐き捨ててその場を足早に立ち去った。
その背中を見送り、嘆息したピクシーがこちらを見る。そして、ぐいと腕を掴んで引いた。
「お前は、殴られる瞬間も目を瞑らないんだな」
まだピクシーが苛ついているのが、見てとれた。むしろ二人だけになったことで、余計かも知れない。
「怖くないから」
そう答えた。事実だったから。
腕を掴んだまま、ピクシーが歩きだした。そのまま腕を引かれて歩く。どうせ一緒の部屋なのだから、抵抗する理由もない。
乱暴に扉を開け、立ち止まったピクシーの背中に頭がぶつかった。
「ピクシー?」
呼ぶ。返答なし。
しばしの間。もう一度。
「ピクシー」
二度目の呼びかけの直後、ふわりと身体が浮いて落ちた。
減速から急降下したときの、あの感覚に似ている。違いがあるとすれば、背中から落ちたことと、地面があまりに近かったこと。
そして地面ではなく、ベッドの中に身体が沈んだこと。
「…ピクシー、今日は本を読んでくれないのか?」
「サイファー、抵抗、するなよ」
のしかかるようにベッドに手をついたピクシーが、問いかけを無視し、真面目な顔でそう言った。
「しない」
答えると、ピクシーの手がジャケットを脱がしにかかった。シャツを捲り上げ、訓練の際についた傷を撫でる。
ひとつだけ、しまった、と思ったのは。
このところ毎晩のように、寝床を借りに行っているキーアに、「今晩は部屋に行けない」と断っておくことができなかったことだが、まあ、明日の朝にでも一言言えばいいか、という結論に、達した。
スピード上げてく 君は見せもの
Geist Seele Wille Zelle