狭い世界で暮らしていたんだな、と少し思ったのは、初めて見る飛行船や知らない街を目にしたからだった。
 リヒタルゼンという街は、綺麗な街だったが、整いすぎている印象もあった。どことなく静かで、静かすぎて、なんとなく落ち着かない。
 別に人がいない訳ではないのだ。街ゆく人を見遣り、自分の服装が浮いていることに、一夜は気付いた。
 国が違うと、そんなものなのかも知れない。標準的なウィザードのマントを脱ぎ、目隠しを取る。それで少しはマシになったような気がした。

 期待を、しているのだろうか。

 一体、なんの?

 彼がまた、生きて、肉を持って、血を持って、体温を持って―――、俺の前に現れること?

 ちがう、そんなことはない、と一夜は眉を寄せた。
 墓の下から消えた、大切だった人の死体。それを探しに、こんなところまでやってきたのは、ただの独占欲なのか、それとも何かを期待しているのか。自問自答するところであった。
 死人が生き返るはずが無い。死人は戻ってこない、だからこその死だ。
 自分のために、ここにいる理由が必要なのだとすれば、そう、もう一度、死んでいる彼を、確認するためなのかも知れない。
 とりあえず聞き込みでもするべきか、と思っていると、
「そこのおにーさん」
 と、どこからか声を掛けられた。
「……?」
 相手の姿を探してあたりを見回す。それらしい人物はいない。
「こっちだよ。そう、そこの木の影」
 手入れがされている、街路樹の陰を見遣る。自分と同じで、どこかこの街に不釣合いなブラックスミスの男が、だるそうに座り込んでいた。
「鍛治屋がこんなところで、何しているんだ」
「商売だよ、商売ぃ」
 赤い髪のブラックスミスは、にこりと笑うと一夜に向かって手招きをひとつ。多少警戒しつつも、男に近寄った。
「あんたさぁ、冒険者だよな。死体探しかい」
「…なんでそれを」
 服装を見遣れば、冒険者であることは一目瞭然だ。しかし死体探しをしているなんて、一目で分かるはずがない。
 こいつは、関係者だ。と一夜は警戒を強めた。
 しかし赤髪のブラックスミスは、へらへらと笑って肩を抱き寄せた。
「まぁまぁ、そんな警戒すんなよお。結構な、この街まで調査にやってきたりする奴が多いんだよ。俺はそいつらに情報を売ってるってわけさ」
「情報?」
 聞き返すと、ブラックスミスは大きく頷き、視線を向こうにある大きな建物に向ける。
「この街にはな、おにーさんも小耳に入れたことがあるかも知れないが、レッケンベルってでかい企業があるんだ」
 なるほど、あの大きな建物が、その企業の本社なのだろう。あれだけの大きさを持つのだから、この街に対する影響力も大きそうだ、と一夜は思う。
「でっかい製薬企業、その地下にあやしーい秘密の研究所があるとしたら、おにーさんどうするよ?」
「…何が言いたいんだ。その研究所が怪しいって言うのか」
「そうよ。まぁ怪しいというより、中に入れば分かるくらい、そのまま、さ」
「そのまま?」
 いまいち遠まわしなその話し口に苛つき、一夜は眉を寄せる。
「この街はな、見た目は綺麗で、整ってて、華やかで―――でも貧困層が住んでいる貧民街がひっそりとあるんだ。そこで行方不明になった奴、ここにやってきて消息不明になった冒険者、それから、」
 何時の間にか、ブラックスミスの顔が真剣なそれになっていた。
「どこからか運ばれてきた死体、それらがどこに消えたかっつーと、―――その研究所なわけさ」
「…何故」
「何故? それはどういう意味の何故だい?」
「何故そんなことを知っている。そしてどうして、情報を売る真似をしているんだ」
「前者の答えは、俺はレッケンベルでバイトをしていたからさ。あの会社、武器のやり取りを他国としているからな。もちろんイズルードにだって運ばれてる。そのとき、ちょっとな」
 訳有りの顔をしてみせるブラックスミスに、頷いた。そして続きを促す。
「後者は―――簡単さ。あの研究所、レゲンシュルムって名前らしいが、…人を使った実験をしているんだ。少し前まで、死体をこっそり買い取って実験してたみたいだが、最近は生きてる人間を使うようになったみたいなんでね」
 ふっ、と皮肉げに、そのブラックスミスは笑い、
「同じ人間として放っておけない―――というよりは、自分の身が可愛い。巻き込まれる前に、こうしてこっそり、強そうな冒険者サマを案内して、なんとかしてもらおうって寸法さ」
「今までにも何人か、そうやって情報を売ったんだろう。彼らは?」
「帰ってきた奴もいるさ。けど証拠が掴めなかった。でなきゃ俺がまだこんなところで、情報を売るわけもないだろ?」
 ふむ、と少し逡巡する。そんな一夜の横顔を見ながら、「ああ」とブラックスミスは声を挙げた。
「そういえば戻ってきた奴は、すげえ怯えた様子でさ、こう言ってたなあ」
 そこで一呼吸。
「白い髪のプリーストが、研究所の中を徘徊してるって、さ。まるで幽霊みたいな奴が」
「…案内してくれ」
 自分でも驚くほど、一夜は即答していた。


「こんなところから?」
「バレないよーに侵入するには、仕方ないんだよ。ほら、狭いのは入り口だけさ」
 監視の目を盗み、貧困街に連れてこられたかと思いきや、案内されたのは大きな下水管だった。
 狭い入り口を潜り、靴が水を叩く。一夜は少し顔をしかめたが、水自体はそんなに多くない。水溜り程度の深さだった。
 ぱしゃぱしゃ二人分の水音が響くのを数分聞き、少し歩くと行き止まりだったが、突き当たりの天井に、ここから下水を流すのだろう、網目の細かい格子がある。
「っと…、ほら、ここから入るんだ」
 壁にある、簡単な金属梯子を登り、ブラックスミスは入り口を開けた。場所を譲ったので、一夜は彼に代わってそこを登り、上に上がる。
 と、その入り口が途端に閉められた。
「…おい?」
「悪いな、冒険者さん。あんたとは、ここでさよならだ」
 格子の向こう、ほの暗い中で、にやりとブラックスミスが笑った。
「これからもこの商売するためには、ここから生きて出てくる奴がいたら困るんだ」
「謀ったのか!」
 格子戸に噛み付くが、既に鍵でもかけられたのだろうか。ガシャガシャと鳴るばかりだった。
「普通、もっと警戒するもんだと思うんだけどな。ほら、余所見してる場合じゃないぜ、ちゃんと歓迎受けろよ?」
 男が指差す。はっと一夜が振り返ると、何時の間にか、そう、何時の間にか、一人の少女が背中に立っていた。
 青い髪の、少女の剣士である。何故こんなところに、などとは思わなかった。彼女の目は、何も見ていない。
 抜き身の剣にはっとする。きつく柄を握り締める音。
 ファイアーウォールを出そうとして、止める。魔術師というものは、精霊使いというその性質上、属性を感知する能力がある。
 この剣士は、火だ。
「フロストダイバー!」
 正直、あまりレベルの高くないフロストダイバーではあった。それでも剣士の足元から、具現化された氷が足止めをする。その隙に、部屋を即座に飛び出した。
 身体を震わせる。それは恐怖なのだろうか、単にこの建物自体の室温が低いせいもあるだろうが。
 マントを羽織り、先の剣士を思い返す。あれはなんなのだろう。
 もしかしたら、人ではないのかも知れない。それにあの身体能力だ。ただの剣士がする動きではなかった。
 とりあえず出てみた廊下から、ちらりと他の部屋を見遣る。
 いくつも並んでいるガラスの筒が目に入る。1.5メートルはあるだろうか。割れているものやら、中途半端に液体が入っているものやら、様々ではあったが、なるほど、実験に使っていたらしい試験管のようだ。
 入って調べたいところだが、先の剣士のような、人間―――といっていいものか、そんな一次職たちが徘徊している。
 まったく正体が分からない敵を相手にするのは、いくらなんでもリスクが高い。敵に対して、スキルでしか対処できない魔術師であるなら、なおさらである。
 それにしても。見るからに広いこの研究所の、どこを当たればいいのだろう。まともな人間が全くいない。
 一人で来たのは、やはり早計だっただろうか。リィンに一緒に来てくれと、頼むべきだったか。
(まさか、頼めるわけが無い。俺の問題だっていうのに)
 深く息をついた、そのときだった。
 奥から、人影が近づいてきているのに気付いたのだ。その人物を見遣り、口を半開きにした。
 身体が凍りついたようになり、足音が全く耳に入らない位、神経を閉ざしていくのがわかった。
 目はその人物から、全く反らせない。
 なぜなら、そう、その人物は、見覚えのある黒い法衣に、黒い帽子―――スイートジェントルを被り、やはり見覚えのある、白い髪に琥珀色の目で。
「……―――、」
 声、いや、掠れた吐息が唇から洩れた。
 プリーストのかたちをしているが、琥珀色の目には光がない。びくりと、身体が痙攣するように震えた。瞬間、一夜は咄嗟に杖を構えていた。
 考える間なんてなかった。身体が勝手に、と言って差し支えがないほど、いつの間にか、アイスウォールを出した瞬間、走り出したプリースト。
 耳に馴染んだ声が、速度増加をかける。足元に出したはずのアイスウォールを抜けられ、危機感に冷や汗が噴き出した。
 プリーストが杖を振りかざした。こめかみに当たりそうだったその攻撃を、少し身体を逸らして避ける。魔術師にしては大した動きだったが、身体のバランスを崩した。
 そのまま体当たりを受け、受け身も取れずに倒れた。頭で鐘が鳴っているような、がんがんと揺れる感覚を受け、動けないところにそのプリーストが馬乗りになってきた。
「つっ!」
 どすんとかかる体重。首にかけられる相手の両手。
 その手はひんやりとしていて―――いや、氷のように冷たくて、一気に締められる苦しさが、恐怖を掻き立てた。
「ッ、」
 首を振るようにもがき、苦しさに振るった手が相手の顔に当たる。傾いていた黒い帽子が落ちた。
 間近に見える、その顔は、やはり―――、
「ヴィ、スっ…!」
 なくしてから気付いた、大事な人。
 冷たい手、白い顔が示すのは、彼は既に死人であるということだった。
 いや、それは分かっていたはずだ。一夜の背中で息を引き取り、遺体を柩に沈め、その蓋を閉めたのも一夜自身なのに、
 どこかで、恐らく期待をかけていたんだ。
 生きているんじゃないか。生き返るんじゃないか。
 しかしこの冷たさは、現実だった。
 頭が朦朧とする。走馬燈なんて見えなかったが、まだこのプリーストを忘れていない自分を、好きだと言ってくれた、アサシンクロスの顔が浮かぶ。
 ごめんな、リィン。
 それで最後かと思いきや、腕が緩んでいたのに気付いた。
 ぱたり、ぱたりと、水滴が一夜の頬に落ちる。
 ぼやけていた目の焦点を合わせると、馬乗りになったプリーストの両目から、涙が一粒ずつ、溢れていた。
「いち、や―――いちや、一夜…」
「………」
 懐かしい声に、一夜は言葉を失った。
 幻覚ではない。幻よりもずっと現実味を帯びた声。
 先まで首を絞めてした腕が離れる。青白い指に、爪も土色で、割れてぼろぼろだと言うのに、ヴィスはしっかりと、意識のある目で一夜を見つめていた。
「お前、なんで…、深淵は、あのアサはどこだ…?」
「……、」
 問いかけるヴィスに、ただ一夜は口を開いたままだった。
 彼の中ではまだ、あの時の時間そのままなのだろうか。
 言葉が、出ない。
「……なんだよ、なんで泣くんだ…?」
「っう…」
 つられるように、泣き出した一夜の涙を拭い、ヴィスは濡れた自分の指を見遣った。
 その死人の指を見た途端、槍で貫かれ、死んだあの瞬間の感覚を思い出す。
 熱くて堪らない血が、どんどん身体から流れだす感覚。同時に、寒くて寒くて仕方なかった感覚。
 ―――ああ、やっぱり、死んだんだ、俺は。
 そう悟れば、笑ってしまうほど肝がすわった。
「…一夜、泣くなよ。ごめんな、何度も悲しませて」
「…か、ばか…っ」
「ごめん」
 ぼろぼろ涙を落とす一夜を、一度きつく抱きしめる。冷たい身体をくっつけて。
「お前が―――生きてて良かった。悪いな、先に逝っちまって」
「全くだっ…」
 無理に涙を抑えた一夜が、落ち着こうと深呼吸をする。
「…一夜」
 ヴィスの呼びかけが、滅多に聞かないほど、真剣な声になる。
 それに何故か、一夜は責められた気分になり、詰まっていた言葉が吹き出した。
「っの馬鹿、先に死にやがって…、人がどんなに…」
 辛い思いをしたか。
 そう繋げようと思い、止めた。そんな文句は、あの時リィンが聞いてくれた。
 ひと呼吸。それから少し困ったように視線を漂わせ、少しずつ、言葉を選ぶ。
「…謝りたかった、あのアサシンは、俺の弟だったから、お前はただ、巻き込まれただけで…。俺に関わらなければ、あんなところで死なずに…、すんだ、のに」
 目頭が熱くなる。折角収めた涙だ。今は泣いてる時じゃない、と、一夜はきゅっと目蓋を閉じて、涙を堪えた。
「お前がいなかったら、もしかしたらとっくに―――だから、ごめん、ごめん…、近くに居てくれて、」
 震える声が、少し邪魔をする。目蓋に涙が滲み始めたのが分かって。
「ありがとう、本当に、本当に、ほんとうに―――」
 暫くヴィスは、軽く驚いた様子でそれを見ていたが、少し微笑み―――目蓋をきつく閉じたままの一夜には、勿論見えなかったが―――、生気のない色をした指で、一夜の髪を撫でた。
「お前が、生きててくれたら、俺はもうどうなったっていいさ。―――なぁ、プリーストとしちゃ、こんな姿でこんな事を言うのは、不謹慎かも知れないけどさ、お前の本音聴けて…、こうやってまたお前に触れることができて」
 うん、と一拍そこで置き、
「すげぇ、幸せなんだ」
 目元に土色の手を乗せ、びくりと動く一夜の身体を、少し見つめた。
「だから、ありがとうな―――泣くなよ。ブレス、かけてやるから」
 こくりと頷く、ウィザードの身体は、涙を抑えるのが精一杯といった風で、それでもヴィスは微笑むと、冷たい自分の唇を、相手のそれに重ね、
「………?」
 少しもそのプリーストが動かないことに、一夜が疑問を持った頃、魂をなくした入れ物は、くたりと力を無くした。
「おい…」
 身体を起こし、そのプリーストを抱える。
 
 これは、この状況は、
 デジャヴのように繰り返す、この状況は。
 あのときの―――、

 そう恐怖した瞬間、そのプリーストの身体が、なにかの手品のように全身、服を残して灰になった。
「あ、あ、」
 泣き出しそうになった口を押える。

 ブレス、かけてやるから―――。

 馬鹿野郎、なんて祝福の仕方だ。
 残された服で顔を隠し、嗚咽を堪え、ぴくりと何かに気付く。
 突然膨れ上がった魔力に、背後を見遣ると、先の剣士のような―――しかし今度はマジシャンの少年が、念の力を繰っていた。
 ソウルストライクだ。
 INTがある分、それらはなんとか堪えた。Lvは3といったところだろうが、なんという魔力だろう、と思わず一夜は恐れる。
「っぐ」
 詠唱を嗚咽が邪魔をした。もたつく身体は、あまりに重過ぎる。それでも膝を立て、起き上がろうとした体、肩口に、どすんとなにかが突き刺さった。
「!?」
 肩口から生えた矢、血のついたやじりに、軽く意識が飛びかける。
 二撃目が来る、と思った瞬間、突然、本当に突然に、何かが目の前で姿を現した。
「いいいいいいい、いちにゃにさわるなあぁぁぁぁぁぁ! そうるぶれいかあぁぁぁぁぁぁ!」
「っえ…?」
 現れたアサシンクロス様は、いつもどおりのウサミミで、そんなことを声高に叫びながら、心なしか力の篭ったソウルブレイカーを、そのマジシャンに直撃させた。アーチャーから放たれた矢を、するりと避け、もう一撃。
 あっさりと倒れたそのマジシャンとアーチャーから、
「あ、なんか落ちたぁ」
 そそくさとドロップを拾い、くるりと振り返って一夜を見遣る。
「あぁんもおおおっ、こんなところで危ないでしょーーーーっ!」
 法衣を抱きしめたままの一夜を、近寄ってぎゅっと抱きしめると、
「つっ!」
 矢に腕が触れ、痛みに身体を捻った。身体を離したリィンの目が、その矢に釘付けになる。
「!!!! い、い、いちにゃに怪我させたのはどいつだぁぁぁぁぁっ、ぶっころしてやるううううう!」
「も、もう死んでる、からっ…」
 痛みを堪えるような、細長い息を吐き出す。あんなに寒いと思ったのに、心なしか汗までかいてきた。
「お前、なんでこんなところにいるんだ…、どうやって入って…」
「んとね、いちにゃの匂い辿ってえ、赤い髪のブラックスミスくんねじりあげたー」
「…………」
 なんとなく頭を抱えたくなったが、それだけで全て察しがついた。恐らくこの上ない正攻法で、強引に乗り込んできたのだろう。
「本当に、まったく、さ―――」
 寄りかかると、今度は矢に触れないように、腰のあたりで軽く抱きしめられた。
 ああまったく、ほんとうに。
 悩む暇もないな、と苦笑すると、急に眠くなって力を抜いたが最後、そのまま眠ってしまったのだった。


「ん、…?」
 目がさめると、そこは全く知らない場所だった。
 一夜はベッドに寝ていたが、その部屋は雑然としており、しかし置いてあるものには見覚えがある。一夜の私物だ。
 運び困れてそのまま、といったところか。ベッドに突っ伏して、リィンが寝ていたが、身じろぎしたのに気付き、飛び起きた。
「はっ! いちにゃ起きた!」
「うわっ!」
 なぜこのウサクロ様は、いつもこう唐突なのだろう。そう思うのは程ほどにすると、すぐさま疑問が口を突く。
「どこだ、ここは…」
「おうち」
「お前の?」
「俺といちにゃの!」
「…………え?」
 聞き返すと、
「あんしんしてーー、ブラックスミスくんと、けんきゅーじょの証拠、ちゃーんと出してきたからー。いまごろレッケンベルは大慌てだよー。んで、おわったからかえってきたの」
 と、どこまでも呑気な口調で言う。当然肩から矢は抜かれており、プリーストあたりが治したのだろうか、包帯は巻いてあるが痛みもない。
「ほんとはもっとはやく、おっかけたかったけどねえ、これ用意してたから!」
 リィンは自分のズボンのポケットに手を突っ込み―――飴玉が山ほど出てきて床に落ちるが、気に留めず―――一夜の手を掴んで引っ張ると、手のひらに何かを乗せた。
「…鍵?」
「うんっ、合鍵ー。いちにゃのために、このおうち買ったから。アビスくんにおねがいして、荷物も運んでもらった!」
 あの野郎、と少し思うが、その鍵とリィンを見比べる。
「……待て、家を買った?」
「うん。だって、いちにゃはおよめさんだから、いっしょにくらすんでしょ〜? ずっと俺は弟たちと、さんにんぐらしで、いちにゃは宿屋だったもん」
 にっこり笑い、リィンが言った言葉を反芻する。
 十回ほど頭の中で繰り返したところで、ようやくその意味が染み込んできた。
 顔が真っ赤になり、その鍵をぎゅっと握り締める。
「…馬鹿」
 そう言って、苦笑いのような、そんな表情を浮かべた。


 あれで、良かった。
 幸せだったのは、本当だったから。
 愛してると、もちろんあの時言えた。けれどそれはいいんだ。
 俺はここでいなくなる、一夜はこの先ずっと生きてくれる。
 愛してるなんて言葉で、あいつのこれからを縛っちまわないように。
 これからあいつの恋人になる人を、あいつが愛せるように。
 俺はここで、過去になってやるのが、今示せる精一杯だもんな。

 ああ、先生。俺あんたの言ってたこと、今なら分かるよ。
 こういうのを、愛してるっていうんだな。
 俺は、あいつの螺子になってやれたかな。
 なあ、先生―――、あんたは、そっちにいるのかな?








Special Thx @Iさん