まるで吐息が、他人のもののようだ。

「はぁ…っ、はぁ…」

 ウィザードの―――つまり自分の、ガタガタ震える指先は、それでもなお、ナイフを握っていた。

「んっ、はあっ…」

 過呼吸すぎて、舌が乾燥する。息と唾液を飲み込み、無理矢理利き手に力を込めた。
 口の端から、何か液体が零れ落ちた。赤みがかった透明色の液体だ。木でできた床にも水滴が落ちており、染みを作っている。
 ポーション瓶が一つ転がっており、中味はない。半分は飲み干したが、半分は床に落ちた。
 バーサークポーションだ。

「う、あぁぁ…、あぁぁぁぁ…」

 呻き声は、腹から響くようなものになる。震える手に握られたナイフが、腕を、肌をゆっくり裂いていく。
 震えが止まらないから、後から躊躇い傷になるだろうか。自分で自分を切り裂くことは、とても強い、強い恐怖があるから。それを示すギザギザの傷が、きっと残るだろう。
 そうして五センチほど切り裂いたところで、動きを止めた。噴き出した血に濡れて、手から離れたナイフが揺れ落ちる。からんと音を立てて、僅かについた血を撒き散らす。
 この程度か。
 自嘲すると、頬が緩んで、皮肉げな笑みを作った。
 そこでふと、ふわりと風が入ってきた。戸口を見ると、ドアが開いており、人の影。逆光で見えにくいが、それは馴染みの錬金術師の姿だった。
 この世の終わりのような、絶望した表情で、彼はこちらを見ている。
「ばか一夜…」
 聞きしまいそうな、小さな声。
「ばかやろう…、ばかやろう…!」
 駆け寄り、鞄を探る。その錬金術師は、取り出した布を傷口に宛てた。
 真っ白なガーゼだったが、実にあっさりと、赤く染まっていく。
「ばかやろう、何でこんなことをするんだ…」
 肘の関節を握り、血が止まるのを待つ。しかしなかなか止まらない、止まらない。
「…っ、いる…んだ」
 未だ薬で興奮したまま、一夜は答えた。
「そこに…。そこで笑ってるプリーストを、何とかしてくれ…」
 アルケミストは、一夜の視線の先を辿った。そこにあるのは、ただの古い椅子だけで、部屋に三人目の姿はない。
「俺たち以外に誰も―――」
 そう言おうとして、はっと気付く。そして舌を噛んだ。悔しくて。

 あんたか。あんたなのか。


 宮城一夜とは、友人だった。今でもだ。
 プライドが高そうなウィザード。そのくせ、いつもどこか余裕がなさそうで、一人でただ、ひたすら狩りをしていた。
 双夜という双子の弟がいること。共にウィザードになるはずだった弟は、バードになったこと。今では殆ど会っていないこと。
 誰かに命を狙われていること。弟もその対象かもしれないこと。―――弟はそれを知らず、ただ一人で強くなろうとしていたこと。
 だから自分に何かあったときは、弟を頼むと、よく一夜には言われたものだった。
 アルケミストである自分を、少し悔やんだことがある。剣を取ればそこそこに戦えるが、魔術師と組んだところで、大した働きもできやしない。
 だからせめて製薬では、と、彼の頼むものならば何でも作った。もともと製薬で生計を立てている。
 その晩、露店を出したまま、うたた寝してしまい、慌てて飛び起きた。品物は全てなくなっている。
 盗られたかと思いきや、愛くるしい羊のホムンクルスが店番をしてくれたらしい。小銭入れが一杯になっていた。
「よくやった、マトンさん」
 ぐりぐりと頭を撫で、そのホムンクルスに餌をやる。
 この時間では道具屋は閉まっているだろう。仕入れは明日の朝にして、カートを引いて帰ろうとした、そのときだった。
「、はあ、ッはあ…はっ」
 静かな夜の路地に、苦しげな吐息が聞こえてきたのだった。
 何事かと見遣る。向こうの方から、ゆっくりゆっくりと進んでくる人影。
 先に反応したのはホムンクルスだった。四本足の獣は、素早くその人影に駆け寄る。
「あ…」
 そして自分も気付いた。背中に何かを背負った人物。それは間違いなく友人だった。
「一夜!」
 名前を呼んで、カートを置いて走る。あちこち血まみれになったウィザードは、相当に疲労していた。足を止め、膝をつきそうになるが、なんとか堪えたようだった。
「………を、こいつを、…助けて」
 顔は血と、恐らく涙で濡れていた。そして、その一言が限界だったらしい。地面に膝をつくと、背負っていた人物が明らかになる。
 プリーストだ。白い髪の。そのプリーストを背中から降ろし、すぐ気付いた。
 おびただしい流血は、一夜の白いマントを真っ赤に塗らすほどで、そんな酷い傷を負っているのに、彼は、彼は―――、苦悶の声どころか、喘ぎ声どころか、
 息を、していなかった。


 それからの時間は、長く、短く、早くて緩やかで、
 ただ心臓が動いてるだけの、人形になってしまった。そんな一夜をアルケミストが放っておけるわけが、なかった。
 すぐに、いつも通りに戻ったかと思われたが、一夜のことだ、表面を繕うのだけは上手い奴だと、思い出した。それがまた胸を締め付けた。
 あのプリーストの埋葬を依頼し、遺品を整理し。天涯孤独だった聖職者の家と、持ち物の半分を、一夜は受け取った。もっとも、家は貸屋なのだが。家賃は先払いしてあるらしい。
 あまりに親しい者が、突然の死を迎えるなどして居なくなると、その死人の幻覚を見るようになる、そんなケースがあるという。
 それが、「まだ生きているような気がする」と思うだけならばいいのだが、はっきりと姿が見えるのだ。そして声も。

 そんなに、お前にとって、あのプリーストは大きかったのか?

 馬鹿な問いだと思い直し、ようやく止まった傷口を手当てした。
「後でも追うつもりだったのか?」
「…違う、そうでもしないと、あいつの声が煩くて―――、メシはまだか、なんて言うんだ」
 これは重症だ、と錬金術師は再確認した。
「は、はははは…」
 ようやく落ち着いてきたのか、一夜が左手で頭を押さえた。笑い声は力がない、ただの音だった。
「すまない…」
 そんな弱気な声を聞くのは、初めてだった。
 次の言葉を言うべきか、躊躇う。だが少し息を吸い、はっきりと言った。
「…一夜、お前この家出ろ」
 ちゃんと、この声は聞こえているだろうか。
「宿はたくさんあるんだし。ゆっくりするも良し、臨時にでも…行ってもいい、とにかく―――」
 もしかして、残酷なことを言っているのだろうか、と少しだけ思う。
「―――思い出す時間を作るな。簡単には忘れられないだろうから、過去にするんだ、いいな」

 もしかして、ではない。残酷な言葉に間違いない。
 一夜、ごめん、ごめんな。
 俺ではお前の恋人にはなってやれない。支えになってやれない。その奈落のような、暗い穴を埋めてやれない。
 幸せにする方法ならば知っている。抱きしめて口付けて、愛を囁いて寝ればいい。
 知っていても、それはできない。
 ギリギリの線で、生きていてくれるのは救いだったが、ある意味では拷問に近い心境だった。あの弱った心で、いつまで生きていてくれるか。
 誰か、あいつを、助けてやってくれ。
 そう思わずにはいられなかった。


 そうは言われても。
 一日の時間のほとんどで狩りをしていたのだから、何もすることがなかった。
 知らない人間と出かける気分であるはずがない。アルデバランまでやってきたはいいが、集中力を欠いているのは明らかだった。
 温い気分で、二階で狩りをしたが、すぐに気分が追いつかなくなった。いや、最初から追いついてなどいなかった。
 結局、リンクサンタ横にあるベンチに座り、ぼんやりとするのが関の山で、自分でも心ここにあらず、という今の状態を熟知していた。

 思い出す時間を作るな。

 そう言った友人の言葉を思い返す。無理だ、できるわけがない。
 黒い目隠しを緩め、外すと、ふと鞄から、手のひら大のロザリーを取り出した。
 遺品の中、目を留めたのはそれだった。不良神父ぶりを発揮していた彼は、服とスキル以外は、まったくプリーストらしくなかった。
 そんなあいつも、胸からいつもロザリーを下げていた。似つかわしくない、などと思ったものである。
 それを握ると、少しだけ落ち着いた気がした。だがすぐに淋しさが心を支配した。
 どんなに望んでも、泣いても、叫んでも、死人は絶対に絶対に、戻ってきやしない。
「はぁ…」
 人前ではまずしない、溜め息をひとつついて、肩を落とした。指先で摘むようにして、ロザリーを持ってみる。
 その時、ばちりと電流が走ったかのような音が聞こえた。
「……?」
 思わず辺りを見る。が、誰もいない。
 気を緩めたその瞬間、すぐ横にいるリンクサンタから、ばちばちばちばち、と空間を引き裂く音と共に、ぬるりと誰かが現れた。
「なっ、なっ……」
 驚きの余り、指からロザリーが落ちた。からんと音を立てるが、それよりも、目の前のものに目線と意識を奪われていた。
 最初に思ったのは、ただ、でかい、だった。
 出てきたのは長身の男で、その衣装はアサシン―――ではない、アサシンクロスだった。
 転生職、と目を丸くする。そう簡単になれるものではない。
 戦乙女に認められるほどの力がなければ、転生は叶わない。神に認められるほどなんて、どれだけ強くなればいいのか、一夜には見当もつかなかった。
 そんな雲の上の存在は、頭にでかいウサギのヘアバンドをつけていた。白くふわふわしたそれが揺れ、そのヘアバンドも含めると、身長は二メートルを越すのではないだろうか。
 驚いたのは相手も同じだったようで、青い目がこちらを見遣る。
「あ」
 目を何度か瞬かせる。そのウサギのアサクロは周りをきょろきょろと見遣り、やがてはっと気付いたように、
「あれーーーーーー!?」
「…!?」
 頭のウサミミを押さえ、おろおろとした様子できょろきょろしている。
 その仕草と大声に驚き、目を丸くしていたが、一夜ははっと我に返ると、おどおどと問いかけた。
「な、なんなんだアンタ、なんでそんなところから…」
「こ、これはぁぁ、ギルメンに時計に行きたいっておねがいしたら、こんなところに〜!」
 時計塔のある、このアルデバランを差して、時計と呼ぶ人間も多い。
 ギルドメンバーのプリーストにでも、ワープポータルを出してもらったのだろう。
 それにしても、なんて場所に出すんだ。
 そしてこの、妙に背丈のあるアサシンクロス。転生職の威厳があまり感じられない…。それどころか、小さい子供のようにすら見える。ウサミミのせいだろうか。
「あ、おちてるよお〜」
 後ろに束ねた青い髪が揺れ、そのアサシンクロスは、石畳に落ちているロザリーを拾った。それを一夜に握らせ、「ん?」と少し首を傾げる。
「もしかして、泣いてた?」
「…はっ?」
 思わず素直に聞き返す。泣いてはいなかった。しかし心は泣きたい気分で一杯だった。
 それを見破られたのだろうか? 初対面で? いや、まさか。
「んー…」
 答えない一夜の顔を、じっとアサシンクロスが覗き込む。
「気のせいかな〜。まあいっか、驚かせてごめんね〜」
 呆然としている一夜を尻目に、アサシンならではの足の速さで、時計塔のほうに去っていく。
 その後姿を見て、ふと思い出した。


 あれはまだマジシャンの時で、アルギオペやクロックの顔にうんざりしていて。
 時計塔を見飽きた頃、ルティエが近いことを思い出した。
 リンクサンタに話し掛けるだけで転送されるというのに、ただの一度も行ったことがないルティエは、噂どおりに年中雪景色らしく、ひどく幻想的だった。
 今よりもずっと拙いファイアウォールで、サスカッチを気晴らしに燃やしていると、脇をもの凄い速度で横切っていく、アサシンの姿。
 大きなウサミミをつけ、サスカッチを切り刻んでいく。
 かなり鬼気迫る様子だが、必死狩りというわけでもなさそうだった。何より、明らかに実力に差がありすぎる。サスカッチなど敵ではないのは、見ていてハッキリしていた。。
 ともあれ、「何か分からないが、頑張っているんだな」と思うと、自然と「自分も頑張るか」と思えた。
 駆け足でウィザードになり、久々にプロンテラに戻った時、ちらりと見かけた、アサシンクロスの顔が脳裏に引っかかった。
 あれはルティエで見たアサシンだ、と気付くのに時間はかからなかった。声を掛けたりはしなかったが、拠点が同じ首都にあるらしく、よくその姿を見かけた。
 なにしろあの身長にウサミミ。そして転生職である。
 さらにエンブレムは名の知れたGvG―――つまりギルド同士の戦いを認められたギルド―――だったため、通りかかると視線を奪われた。
 後から知ったが、知人の知人であるらしく、名前は知っている。
 確か―――、

「リィン、か…」
 ぼそりと呟く。
 ロザリーを握ったまま、背を向けて彼が去っていった方向を、一夜は暫く眺めていた。








Special Thx @Iさん